Good Old Days - The Emergence of the Japanese Racing Machines
1959年・第3回浅間火山レース

ROAD RACING STARTED AT ASAMA
文字をクリックすると該当ページへジャンプします。
ROAD RACING STARTED AT ASAMA
文字をクリックすると該当ページへジャンプします。







第3回浅間火山レースは、1959年(昭和34年)8月22〜23日に、第2回と同様 “浅間高原自動車テストコース” で開催されることが決まった。メーカー対抗の “耐久レース” と “クラブマンレース” の併催だ。そして “クラブマンレース” の上位入賞者は “耐久レース” に招待出場できることになった。スタート方式は、前回までとは異なり、全車同時となった。第2回に参加しなかったスズキも、今回は早くから125ccクラスへの出場を決定した。第1回、第2回に好成績をおさめたヤマハは参加しなかった。

浅間高原自動車テストコースは、1周9.451kmのクローズドサーキット

スズキでは、前年の1958年秋にV2Xと名付けたテスト車を作り、浅間コースで予備テストを実施した。このときのベストラップは6分38秒。しかし、コンロッド大端の耐久性がなく、大きな課題を持って帰社した。1958年秋から1959年春にかけて、出力アップとコンロッド大端の耐久性向上に懸命に取り組んだが、後者にはこれといった成果は得られなかった。

1959年5月上旬には、浅間コースでコンロッド大端の耐久性テストを実施した。出力性能上は9,000rpmで走りたいのだが、これでは1周ももたない。このため、20日後にひかえた浅間合宿では、耐久性のある7,000〜7,500rpmで走行するしかないという結論に達した。すぐに、未テストのいろんな型式のものを試作手配し、6月10日頃に準備完了というスケジュールとなった。

浅間練習車RA。ライダーは伊藤利一

8月22〜23日のレースに向け、各社とも、早くから浅間での合宿練習を計画していた。スズキも5月中旬からの浅間合宿を計画し、練習車RA型(2ストローク単気筒、ボア×ストローク:φ56×51mm、4段ミッション)を準備した。出場ライダーは、伊藤利一、伊藤光夫、市野三千雄、松本聡男、増田俊吉の5人。この5人に、補欠として伊藤兵吉さん紹介の日向昌勝を加えた6人が合宿練習に参加した。

5月23日、故・鈴木俊三社長の激励の訓辞を受け、スタッフは浅間に向かった。レースまで約3ヵ月間の合宿の開始だ。当時、浜松〜東京間は準急で4時間。我々はそれに乗って東京に出、東京支店に一泊し、翌日、合宿先である北軽井沢の地蔵川旅館に向かった。昨年秋からなじみの旅館だ。東京〜軽井沢間は急行で3時間あまり。旅館のすぐ隣には、すでに3間×4間の修理小屋が建てられていた。部品を格納し、6台のマシンを修理するとなると、少々手狭ではあった。この修理小屋はレース終了後本社内に移築され、レース部門の部品庫として “浅間小屋” と呼ばれ、長く使われた。

組み立てが終わり、勢揃いした練習車RA

5月25日。いよいよ練習開始。しかし、コンロッド大端の耐久性がないため、7,000〜7,500rpmでの走行しかできない。ホンダとヤマハ(250ccのスーパースポーツと前回出場の250ccレーサー?)も走っていた。27日にはトーハツも顔を見せた。125ccツインエンジンだ。練習でのベストラップは日ごとに速くなってくる。26日は6分30秒、27日は6分18秒、28日には6分15秒と、前回のヤマハの125ccのベストラップを上回った。そして29日には6分13秒5を記録。目標タイムは5分30秒台だ。30日になって8,000rpmで走ってみたら、やはりコンロッド大端が1周ももたなかった。早く耐久性を上げ、フルに性能を発揮させて走らせたかった。

5月31日、ジープで浜松の本社に帰る。RB本命車(レース出場車)の諸元決定テストと、これの設計・製作手配のためである。昨年試作したV2Xエンジンは、クランクが前回転(正回転)であり、浅間合宿用に製作したRAエンジンは後回転(逆回転)である。ベンチでの耐久テストで、ピストンの叩かれ、焼き付き、リングの膠着(こうちゃく)などを比較し、RB本命車用エンジンはV2Xと同じ前回転と決定した。これにより、プライマリー(一次減速)は、チェーン駆動となった。

練習中、コースサイドで休憩する合宿部隊

RB本命車用エンジンの設計を行い、製作手配を済ませる。そして5月上旬に、試作手配をしておいた4種類のテスト用クランクを組み立て、これを車に積んで、6月13日に浅間に戻った。これら4種類のテストクランクの中に8,000rpm以上の走行に耐えるものがなければ、レースでの優勝争いはあきらめなければならない。これが最後の望みだった。なお、この間に浅間から、6分00秒のベストラップを記録したとのニュースが入った。

6月14〜17日にかけて、浅間に持ち込んだ4種類のクランクを組み込み、8,000rpm以上での耐久テストを実施した。このうち3種類は数100メートルも走ると焼き付いてしまった。しかし、最後にテストしたクランクが、ようやく耐久性OKとなった。この時の嬉しさは忘れられない。なお、このテスト中に、ベストラップは初めて6分の壁を破り、5分51秒台を記録した。

本当はもっと良い記録を期待していたのだが、路面の荒れが大きくタイムに影響していたようだ。これでコンロッド大端の耐久性は一応解決したが、回転数を上げ、高出力で走行することになったため、今までになかったコンロッド小端の焼き付き、ピストンの溶けや焼き付きなどのトラブルが発生するようになった。



コンロッド大端の耐久性アップ

当時の日本の二輪車業界は、まだまだ先進のヨーロッパの後追いの感があり、工業会や、それぞれのメーカーでヨーロッパメーカーの車を購入し、いろいろ車作りの参考にしていた。

スズキも、ちょうどその頃スペインのモンテッサ125cc(2ストローク)を買った。コンロッド大端の耐久性に頭を痛めていた我々レースグループは、このモンテッサのクランクを分解してみた。

このマシンのコンロッド大端ベアリングは、保持器を使用せず、φ3×11.8mmのローラーを並べたものだった。このような形式はローラーのスキュー(skew)が起こり、好ましくないというのが、ベアリングメーカーをはじめ、一般的な考えだった。

しかし我々は、藁をもつかむ気持ちで、これを参考に試作品を作り、8,000rpm以上での耐久性を得ることができたのである。まったくモンテッサさまさまだった。ちなみにクランクピンφ17.53mm、ローラーはφ3×11.8mmが21個、ラジアル隙間は0.05mmという諸元だった。

この形式のベアリングを、我々は “バラニードルタイプ” と呼称した。そしてこのタイプは、浅間レース出場マシンを皮切りに、1960〜1961年のレーサー全機種はもちろん、1962年の50cc世界選手権の獲得マシンRM62にも使用されたのである。





6月20日には、ベストラップ5分41秒台を記録し、高回転走行が可能になった成果も出てくる。目標としてきた5分30秒台も目前となった。私は、コンロッド大端の耐久性の解決により新しく発生してきたトラブルの対策のため、6月21日〜26日の間、浜松本社で過ごした。まず、コンロッド小端部の焼き付き対策のため、小端部にも “バラニードルタイプ” のベアリングを採用したクランクを試作手配した。ちなみにピストンピン径はφ14mm、ローラーはφ2.5×15.8mmが20個、ラジアル隙間は0.04mmという仕様とした。

次に、ピストン焼き付き対策としては、エンジンが前回転のV2X車を浅間に持ち込み、テストするよう準備した。このとき浅間で走行していたRA車は後回転だった。ちょうどその頃、浅間から、ベストラップ5分39秒5を記録したとの連絡が入った。

浅間のパドックにて。向かって左が筆者

6月30日朝、浅間山が爆発したが、曇りのため煙が少々見えた程度だった。この日、浅間に持ち込んだV2X車の連続耐久走行を実施したが、ピストン焼き付きトラブルは発生せず、製作中のRB本命車は大丈夫だろうと一安心する。浅間山爆発による降灰で、テントの屋根は真っ黒だった。

7月2日には、ホンダの河島監督をはじめ、6月のマン島TTレースに参加した谷口尚巳、田中らが、初めて浅間に顔をみせた。彼らのマシンは、TTレースに出場したエンジンを搭載したものだ。周回タイムは、スズキと同等か、若干ホンダの方が速いかといったところだった。

7月4日には、再び浜松本社に戻った。前回帰社のさいに試作手配しておいた “コンロッド小端にバラニードルを採用したクランク” を受け取り、浅間に運ぶためだ。製作が遅れており、スズライトに積んで浅間に戻ったのは7月11日だった。今思うと、当時のスズライトに重い荷物を積んで箱根を越え、碓氷峠を登り、よく故障なく走れたものだと思う。

浅間に戻った私は、さっそく持参したクランクを組み込み、耐久テストの準備を整えた。しかし、浅間は雨ばかりで、やっとテストできたのは7月15日だった。2台のマシンで10数周の耐久走行をしても、コンロッド小端の焼けのトラブルはなく、まずはOKだ。翌16日には、6台で耐久テストを実施。コンロッド大小端の耐久性はOKだが、新しい問題として、ピストンスカートの割れが発生し、至急、対策ピストンを手配した。

スタート練習に励むスズキのライダーたち

7月19日には、RB本命車を組み立てるため、全員が本社に戻った。そして、30日になって組み立ての目途がつき、清水係長(監督)とライダーらが浅間に戻り、練習を再開。調整とテストが済んだRB本命車は、8月6日に浅間に持ち込まれた。

8月9日になると、スカート割れ対策の補強ピストンも完成し、組み込みを完了。12日には、他メーカーが顔を見せない早朝から、RB本命車で初の全開耐久テストを始めた。しかし、あいにくの降雨のため、数周でやむなく終了。RA練習車のときには発生しなかったエンジンの “バラバラ(不整燃焼?)” が全車に発生していた。原因はわからなかったが、分解してみて驚いた。ピストンが溶けはじめているものあり、トップリングが折損しているものあり、ピストンピンセットリングが外れて折損しているものありといったありさまだった。

まったく、次から次へといろいろ問題が出るものだ。コース解放日はあと6日しかない。ホンダの本命車も姿を現わし、連続走行を始めた。我々もRA練習車で練習開始だ。ラップタイムは、ホンダが6分ちょうどくらい、スズキも6分ちょうどから6分5秒くらいだった。この日の悪い路面状況なら、ベストラップはこんなものか?

いろいろ新しい問題を抱えているのに、台風7号が近づいたため、雨でテストができず、焦る。13日夜半には台風が直撃し、昌和クルーザーの宿舎の屋根が吹っ飛んだ。樹木も根こそぎ倒れ、コースも水びたしだった。

16日、やっとコースが使用可能となった。コースを使えるのは、この日を含めて3日しかない。レース出場諸元を決めるべく、2台のマシンで連続耐久走行を実施。5分53秒程度のラップタイムで20周ほど走行した。ホンダの河島監督も興味深く見ていたようだった。エンジンの “バラバラ” の原因は、まだつかめなかった。分解してみると、1台はピストンが溶けはじめ、他の1台はリングが折損していた。もっとガスを濃くするなどの対策が必要だ。リング折損については、今からでは手の打ちようもなく、運を天に任せるしかなかった。

17日は、諸元を変えて再び連続耐久走行を実施した。この日の諸元なら何とか耐久性はOKのようだ。レース出場諸元が、やっと決定した。夕方になって、エンジンの “バラバラ” は、フロートの浮動方法に問題があるためだということが、やっとわかった。

18日は、テストコースの使用が禁止されたため、全車、分解整備をした。19日が最終テストだ。レースにそなえて、入念な摺り合わせを実施する。エンジンの “バラバラ” も、フロートを極端に浮動させればOKのようだった。

レースグループの面々。修理小屋前にて

やるべき事はすべてやり、あとは23日のレースを待つだけだ。いろんな問題にぶつかりはしたが、どうにかほとんど解決できた。頭はチンチンと痛み、苦しい日々の連続だったが、この苦しみがあるからこそレースは楽しいし、面白いし、止められない。これは一種の麻薬みたいなものかもしれないと思った。まともに最後まで走ってくれれば、優勝のチャンスは十分にある。簡単にホンダに負けるとは思わない。これがこのときの気持ちだった。

いよいよ23日がやってきた。朝から雨。しかも午前8時から9時にかけて、どしゃ降りとなった。予定よりも30分遅れの10時30分に125ccの耐久レース(14周)がスタートした。幸いスタート前に雨はやんだが、路面には水たまりもあるし、水を含んだ火山砂は滑りやすく、最悪の状況だった。

1周目の順位は、谷口(ホンダ)、伊藤光夫(スズキ)、北野元(ホンダベンリーSS・クラブマンレース優勝者で招待出場)、伊藤利一(スズキ)、福田貞夫(ホンダ)、松本聡男(スズキ)、市野三千雄(スズキ)。

2周目に2位の伊藤光夫が転倒。5周目にはトップの谷口も転倒。6周目に入ったときの順位は、北野、伊藤利一、藤井璋美(ホンダ)、鈴木淳三(ホンダ)、市野、松本。7周目に2位の伊藤利一が予期しないタンク漏れでリタイア。最終ラップに入ったときの順位は、北野、鈴木、藤井、市野、福田、松本だったが、市野は福田に抜かれ5位、松本はリタイア、6位はトーハツ・ツインの有川英司という結果となった。





1959年浅間火山レース用マシン、スズキRB(125cc)






レースは、伊藤光夫の転倒と伊藤利一の予期しなかったトラブルで、全くの惨敗に終わった。優勝はホンダの工場レーサーではなく、ベンリーSSに乗る若冠18歳・クラブマン招待選手の北野だった。河島監督をはじめ、ホンダのレース担当者も複雑な想いだったに違いない。

レースには惨敗したが、後日、このレースを観戦したホンダの本田宗一郎社長とスズキの鈴木俊三社長が同じ列車に乗り合わせ、本田社長が「スズキさんのレーサーも、よく走るから、TTレースに出てみたら……」と、鈴木社長に話されたとのこと。これによって、スズキの1960年のマン島TTレース出場が決まった……、というのが伝説となっている。


1959年・第3回浅間火山レース