Good Old Days - The Emergence of the Japanese Racing Machines
1960年・マン島TTレース初出場

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■マン島TTレース参加決定と準備

TTレース参加が決定したのは1959年(昭和34年)の暮れ。8月の第3回浅間火山レースが終わり、ホッとしていた頃だった。ホンダの故・本田宗一郎社長と、スズキの故・鈴木俊三社長が同じ列車に乗り合わせ、本田社長が 「スズキさんのレーサーも、よく走るから、TTレースに出てみたら……」 と、鈴木社長に話されたとのこと。これで、出場が決まったというのが “伝説” になっている。

12月27日の企画会議で、正式に翌年のマン島TTレース・125ccクラスへの出場が決定した。浅間レースのようなダートコースではなく、舗装路を走るレーサーなのだから、回転馬力を稼ぐ必要がある。このためエンジンは2気筒(空冷・ピストンバルブ)に決め、さっそく設計にとりかかった。1960年の正月休みは元旦だけだった。これで6月のTTレースに出場するというのだから、今考えるとまったく無茶苦茶な話である。

1960年マン島TT出場マシン、スズキRT60(125cc)


RT60型レーサーができても、テスト走行する場所がないため、やむなく、浜松の西方、国道1号線の新居町〜汐見坂の間にある比較的長い直線路まで、早朝に走行テストに出かけたりもした。けたたましい排気音で目を覚ました近隣の人々も集まってきた。騒音公害などという言葉もない良き時代だった。

荒川テストコースでテスト中の記念写真

ホンダさんに荒川テストコースをお借りして、テストに出かけていったこともある。宿の手配からお昼の弁当の用意まで、ホンダさんがやってくれた。テストコースには、スピード測定のカウンターも設置してくれた。テスト中に、車体のどこかが折れたときは(ステップだったかな?)白子の研究所で溶接をしてもらった。夜には河島喜好課長(後の社長)や飯田佳孝さんが宿に来てくれ、マシンや部品の発送・通関などのノウハウを話してくれたりした。とにかく、ホンダさんにはずいぶんお世話になった。

3月28日には、突貫工事で建設を進めていた “米津浜テストコース” が完成し、走行テストができるようになった。ホンダさんの荒川テストコースと同じ規模の直線を持つコースではあるが、一般の畑の中に建設したため、お百姓さんやリヤカーが時々コースを横断し、大勢の見張りをつける必要があり、危険なテストコースだった。1961年5月2日には、入社間もないテストライダー・内藤隆寿くんが死亡する事故が発生してしまった。

RT60に跨がるG・デューク。米津浜にて

4月には、往年の名ライダー、デューク氏(Geoff Duke、当時マン島在住)を招聘し、いろいろとお話を伺った。彼は、1951〜52年の350ccクラスと1951、1953〜55年の500ccクラスのワールドチャンピオンである。その時のデューク氏への質問事項が日記帳に残っているが、今となっては、まったく幼稚でピント外れなものが多く、恥ずかしい。舗装路でのロードレースのこと、まして世界選手権レースのことなどまったく知らなかったのだから、無理もない。

マシンのほうは、ピストンの焼き付きに悩まされたが、シリンダーを鋳鉄からアルミ鋳物内面にクロムメッキしたものに変えることにより、なんとか耐久性を確保し、やっとマシンと部品の発送に間に合わせることができた。全く、綱渡り的なテストだった。

■いよいよマン島へ

浜松駅から旅立つ。左から4人目が筆者

マン島遠征のため、ホンダチームとスズキチームで日本選手団を結成した。団長は小型自動車工業会の立松さん。5月10日、東京丸の内会館で壮行会を開催。そして翌日にはBOAC機でロンドンへ。当時はヨーロッパへの直通便はもちろん、アンカレッジ経由の北回り線もなく、東京〜香港〜バンコック〜デリー〜カラチ〜ベイルート〜フランクフルト〜ロンドンという23時間の長旅だった。ロンドンに1泊したあと、マンチェスターを経て、ようやくマン島に着いた。

宿舎は、ダグラスの町並みや港がよく見える高台のファンレイ・ホテル(Fernleigh Private Hotel)である。練習車として送っておいたSBB (150cc)で、伊藤光夫、市野三千雄、松本聡男のライダーたちは、1周60kmのコースを覚えるべく、毎日走った。デグナー(Ernst Degner、MZ)、タベリ(Luigi Taveri、MV)、ロブ(Tommy Robb)ら、有名ライダーも同宿だった。

このなかでデグナーは、我々の質問にいろいろ答えてくれた。その彼が、2年後、我々のスズキチームに加入するとは考えてもみなかった。ホンダチームは、ナースリー・ホテル(Nursery Hotel)を宿舎としており、我々がナースリーホテルを訪問したり、我々のホテルにホンダチームが遊びに来たり、牧場でソフトボールの試合をするなど、友好を温めたものだ。ライダーたちはスポーツ万能で、ソフトボールなど上手くて当然と思っていたが、実際はそうでもなく、意外だった。

スズキチームのマン島TT参戦を伝える5月19日付地元紙


■公式練習からレースへ

6月4日、いよいよ公式練習が始まった。この公式練習は、開始直後からアクシデントの連続だった。初日の1周目、伊藤はデグナーの後ろについて走り、コースどりの勉強をしようとしたが、山手でデグナーが転倒。伊藤もこれに巻き込まれて転倒し、二人枕を並べて入院することになったのだ。そして公式練習2日目の6月6日には、同宿のロブさんも転倒し、入院してしまった。伊藤の代理には、シェル石油の紹介でフェイ(R. Fay)さんが乗ることになった。

公式練習では、他車との性能の格差をまざまざと知らされた。MVやMZとは、最高速が30km/h以上違うのだ。 “世界の壁は……” や “井の中の蛙……” とは、このようなことをいうのかと思い知らされた。

幸い、マシントラブルとしては、ピストン溶けが一度、ピストントップリングの膠着(こうちゃく)が数回発生した程度で、まずまずの状態だった。直線だけの “米津浜テストコース” で、しかも短期間の耐久テストだけでのマン島TT初挑戦だったにもかかわらず、天がスズキに味方したとしか、今となると考えられない。だが、この甘さが、翌1961年の苦悩を生み出したのかもしれない。

RT60でマン島TT決勝を走る市野三千雄

6月13日、いよいよレース当日だ。上位入賞を願うのは無理な話。全車の無事完走のみを祈る。決勝は午前10時にスタート。ゼッケンナンバー順に2台ずつ、10秒間隔のスタートである。スズキ車のゼッケンナンバーは、伊藤に替わるフェイさんが20番、松本が24番、市野が25番。60km×3周のレースは、とても長く感じられた。順位やタイムはともかく、願い通り全車、無事完走できた。

このとき私は、アルミ鋳物のクロムメッキシリンダーに心から感謝したい気持ちだった。ホンダさんは、125ccで6、7、8、9、10位、250ccで4、5、6位という結果であったが、優勝を狙うには、 “もう一息” というよりも “まだまだ” といった感じを受けた。