|
|
||
|
1961年(昭和36年)には、初めてFIM(国際オートバイ競技連盟)公認の50ccクラスの国際レース “ヨーロッパ杯レース” が開催され、スペイン、西ドイツ、フランス、ベルギー、オランダ等で年間9戦が行われた。そしてクライドラーに乗るアンシャイト(Hans Georg Anscheidt)が初代チャンピオンに輝いた。同年10月28日、パリでFIMの秋季総会が行われ “ヨーロッパ杯レース” を翌1962年より格上げし、50ccクラスを世界選手権シリーズに加えることが議決された。 ヨーロッパにおける50ccレースマシンとしては、クライドラー(Kreidler、西ドイツ)、トモス(Tomos、ユーゴスラビア)、デルビ(Derbi、スペイン)、モトム(Motom)、イトム(Itom)、ベネリ(Benelli)のイタリア車などが活躍していた。日本においては、1960年9月の第3回クラブマンレース(宇都宮)や1961年7月の第4回クラブマンレース(埼玉ジョンソン基地)などで、トーハツのランペットが無敵を誇っていた。 このランペットを打ち負かそうと、新エンジンの企画を始めたのは1960年11月初旬。ちょうど翌年の世界選手権レース参加車RT61 (125cc)、RV62 (250cc) の試作車の設計が完了した頃だった。機種名はRM。単気筒(ボア×ストローク:φ41×38mm)、ロータリーバルブ、5段ミッションで、性能目標を7ps/10,000rpmにおいた。しかし、5.5ps位の性能しか得られず、目標の性能を確保出来たのは、1961年9月末になってからだった。 当時、愛知県津島市はオートバイレースが盛んで、ちょうど10月22日にレースが開催されたので、急遽参加を決めた。このレースでは、王者ランペット(玉田、荒井)を退け優勝を飾ることができた。開発に苦労したため、この時の喜びはとても大きかった。 このRMエンジンが、1962年の50cc世界選手権レース出場車・RM62のベースとなったのは言うまでもない。RMの開発がなかったら、そしてランペットを打ち負かすという目標がなかったら、1962年のTTレース50cc優勝という快挙は、多分なかったと思う。 さて、1962年の世界選手権は、50、125、250の3クラスへの参加が決まっていたが、125と250の開発が優先されたため、50ccのRM62のほうは、設計が終わって出図したのが1962年1月8日。エンジン1号機が完成したのが3月27日だった。ベンチテスト、米津浜テストコースでのテストと多忙な日々を送り、4月19日に125、250のマシンとともにヨーロッパに向けて発送した。そして4月25日には、我々選手団が羽田を出発し、本拠地を置くこととしたパリに向かった。 第1戦はバロセロナのスペインGP。優勝はクライドラーのアンシャイト、2位にブスケス(J. Busquets、デルビ)、3位にタベリ(Luigi Taveri、ホンダ)、そして7位が市野三千雄(スズキ)。第2戦はクレルモン・フェランのフランスGP。アンシャイトは1周目にリタイアし、優勝はフベルツ(Jan Huberts、クライドラー)。2〜4位がホンダトリオ、5〜7位がスズキだった。それほど大きな性能差はないが、クライドラー、デルビ、ホンダには勝てなかった。125cc、250ccもトラブルだらけで、フランスGPの125ccクラスでデグナー(Ernst Degner)が5位で完走したのがスズキの最上位だった。 ■RM62用性能アップ部品、マン島へ 意気消沈して、第3戦の行われるマン島へ。リバプールからマン島のダグラスまでは、フェリーで4時間半かかるが、強い風と高い波で大きく船が揺れ、ひどい船酔いに悩まされた。ホッキング(Gary Hocking、MV)やフベルツも我々と同じ船だった。 5月23日、ロンドン駐在の松宮氏より電話が入る。“RM62の性能アップエンジン1基と2基ぶんの改良部品が、25日にロンドンに到着する” という内容の電報が日本から入ったとのこと。25日には、留守部隊長の清水課長から、性能アップの詳細について書かれた手紙がマン島に届いた。 26日、公式練習開始。28日、待望の性能アップエンジン1基と改良部品がマン島に到着。性能アップ部品とは、シリンダーとエキゾーストである。29日からは、いよいよ性能アップした諸元で公式練習に臨む。そして6月2日で公式練習は終了。公式練習タイムの総合順位は下表の通りで、トラブルさえなければ優勝の可能性は十分あると期待を持つことができた。日本の留守部隊よ、ご苦労さん、ありがとう! |
|
|
TTレースは、2クラスずつ、1日おきに、3日間かけて行われる。そして、それぞれのレース前日には車検が行われ、そのまま一晩格納される。レース スケジュールは以下の通り。 6月4日 : サイドカー & 250cc 6月6日 : 125cc & 350cc 6月8日 : 50cc & 500cc レース2日目の6月6日は、ホンダチームにとって悪夢の1日だった。スペイン、フランス両GPで優勝し、日本人初のチャンピオンを目指していた高橋国光が、午前の125ccレースの1周目に転倒して重傷。午後の350ccレースでは、前年度125ccクラスチャンピオンのフィリス(Tom Phillis)が激突死亡。ホンダチームの面々と顔を合わせても、全く気の毒で、なんと声をかけたら良いやら……。 高橋国光は、翌1963年の第1戦・スペインGPから奇跡的に復帰し、活躍したが、1964年を最後に四輪に転向し、今なお、現役ドライバ−として活躍しているのは驚きである。(1999年12月に引退) ■マン島TTにて世界選手権初優勝!
しかし、わずか2周の50ccレースでは、ライダーは、スタートして半周走ったサルビーの情報を1周目のピットのサインで知り、次は、1ラップ終了時の情報を1周半走ったサルビーのサインで知る。つまり、途中のサインはたった2回なのだ。 午前11時スタート開始。マウンテンコースでは、同時スタートではなく、また公式練習タイムとも無関係で、あらかじめ決められているゼッケン番号順に2台ずつが10秒間隔でスタートするのである。(エントリーは58台、出走台数は33台だった) 11時ちょうど、デグナーがスタート。10秒後にミンター(D. Minter、ホンダ)と市野、20秒後に島崎貞夫(ホンダ)とアンシャイト、30秒後にロブ(Tommy Robb、ホンダ)、40秒後にゲドリッヒ(Wolfgang Gedlich、クライドラー)とタベリ、50秒後にショレー(D. Shorey、クライドラー)と伊藤光夫(スズキ)、大きく間隔をおいて、1分40秒後に鈴木誠一(スズキ)、1分50秒後にフベルツがスタートした。(工場レーサー以外は省略。エントリーは58台、出走は33台だった) |
|
|||||
|
|
|
近づいてきた。車番2のデグナーだ。やっと2サイクルの排気音が耳に入る。この時のホッとした気持ちは、今も忘れられない。工場レーサーが全て通過し、急いでスタート時差を修正する。修正順位は1位デグナー、15秒遅れて市野、さらに5秒遅れてタベリとロブ、続いてアンシャイト、伊藤、ゲドリッヒ、フベルツ、鈴木、ミンター、島崎、ショレーの順だ。出発点のピットに知らせる。 トップのデグナーと2位タベリとの差は15.2秒。アンシャイトは、レースとなると、やはり速い。市野は、サルビーでは2位だったが、ゴーグルの調子が悪く、このあと残念ながら遅れてしまった。 2周目のサルビーも、修正後のタイムで、デグナー、タベリ、ロブ……の順位(詳細データは紛失して不明)だった。松宮氏が電話でサルビー通過の状況をピットの岡野武治監督(次長)に伝え、電話を繋いだままデグナーのゴールを待つ。十数分後「デグナー無事ゴール!」の連絡。デグナーがゴール後、アンシャイトが20秒以内、ロブが30秒以内、タベリが40秒以内にゴールしなければ、デグナーの優勝だ! |
|
||||
|
|