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■1963年以後、スズキの大黒柱に
アンダーソン(Hugh Anderson)が故国のニュージランド選手権を獲得し、レースの本場ヨーロッパでライダーとしての実力を試してみようとイギリスヘ向かったのは、1960年の春、24才の時だった。そして同年、イギリス国内レースと大陸でのいくつかの世界選手権レースの350、500ccクラスに出場した。遠征1年目としてはまずまずの成績を納めることができ、マシンを提供くれるスポンサーの目途もついた。
1961年のマン島TT・250ccクラスで、スズキは初めてアンダーソンを起用した。同レースには、アンダーソンの他、キング(Alastair King)、ドライバー(Paddy Driver)、伊藤光夫、市野三千雄、増田俊吉が出場したが、市野が12位、他の4名はリタイアという結果の中、アンダーソンは10位を得た。初めての2ストロークマシンに乗り、しかも不安定なスズキRV61を完走(6周=360km)させたのは大いに評価できた。
その彼は、1962年にはスズキと契約したが、専属契約ではなく、プライベートで350ccと500ccクラスにも出場した。この年のスズキは、50ccクラスではマン島TT、ダッチTT(オランダGP)、ベルギーGP、西ドイツGPとデグナーが連勝していたが、アンダーソンの乗る125ccのRT62と250ccのRV62は、ともにトラブル続きでほとんど完走もできない状況だった。
しかし彼は、2ストロークライダーとして最高の技術を持つデグナーにつとめて追随して走り、デグナーの持つすべての技術を吸収しようと努力した。出走前のキャブセッティングからプラグ選定、ギアチェンジ、ブレーキ、キルスイッチの使用法などなど…。こうして彼は、乗り慣れていた大型の4ストロークマシンに比べデリケートな小排気量2ストロークマシンの操作法を、持ち前の鋭い感覚で習熟していった。
そうこうするうちに、アルスターGPの125ccレースでデグナーが転倒負傷。東ドイツ、イタリアの両GPには出場できなくなった(東ドイツは負傷していなくても、もちろん入国不可能だったが)ため、アンダーソンを50ccに起用してみようということになった。大柄なアンダーソンに大きな期待を持ってのことではなかったが、結果は予想に反し、東ドイツで3位、イタリアで4位、フィンランドで6位、アルゼンチンでは優勝を飾った。続く鈴鹿の日本選手権では、トップを走るデグナーと続く市野の2人が転倒した後、ロブ(Tommy Robb、ホンダ)とトップ争いを繰り広げ、0.4秒差の2位を獲得するなど、頭角を現わしてきた。
そして1963年以後はチームの大黒柱として大活躍し、1963年には50ccと125cc、1964年には50cc、1965年には125ccと、4つの個人選手権を獲得した偉大なライダーとなった。世界選手権での優勝回数は50ccで8回、125ccで17回にのぼり、マン島TTでも1963年の125cc、1964年の50ccと2回の優勝を飾った。
アンダーソンは非常に温和な性格で、たとえメカニックのミスでリタイアするようなことがあっても、決して不満を顔にあらわすようなことはなかった。スズキチーム全員から「アンちゃん」と呼ばれ親しまれた彼は、1966年の日本GPを最後に引退した。引退時30歳。オランダGPで3年連続怪我をし、入院した病院の美人看護婦さんのジャニーと1963年春に結婚した。
178cm、75kgの大きな体を、小さな50ccマシンの中に沈め、カーブで内側の膝を大きく開く独特のコーナリングフォーム、そして故国ニュージランドの国鳥キウィを描いた真紅のヘルメットが深く印象に残っている。今は故郷のニュージランドでモータースを営み、大好きなモトクロスを楽しんでいるとか。
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