通信関係技術の発達で、取材や編集は楽になったか?
(ライディングスポーツ 97年1月号)

                         
  ボクが継続してGPの取材に行くようになったの 
 は90年のことだ。当時は編集部員を派遣していたか 
 ら、ボクは、他の仕事を見つけて先に渡欧し、後か 
 らやってくる編集部員の久保クンと待ち合わせ、い 
 っしょにGP取材に行くことが多かった。     
  一人で、あるいは久保クンといっしょに、畝本チ 
 ームの転戦風景を取材したり、ロータックスの本社 
 を訪ねたり、ヨーロッパ選手権ロードレースやイン 
 ターナショナルモトクロスを見に行ったりした。運 
 転を交代しながら、スペインのヘレスからイタリア 
 のミサノまで、2千数百kmを1日で突っ走ったりし 
 ていたのもこの頃だ。              
  当時はまだPC通信なんて便利なものを使ってい 
 なかったので、現地での原稿はすべて手書き。それ 
 をFAXで送るのだが、われわれが泊まるような安 
 宿でFAX機を備えているところは少なかった。そ 
 こで郵便局や空港の電話室などへ行くのだが、とき 
 には郵便局の中の、スタンプ貼り用の机で書きかけ 
 の原稿を完成させることもあった。        
  FAXの料金を節約するため、4mm方眼紙にびっ 
 しりと日本語特有の『漢字かなまじり文』を書いて 
 いると、よく、現地の人間に声をかけられた。「い 
 ったいオマエらは、何個文字を持っているのだ?」 
 というのが彼らの興味の中心だった。「そうだなあ、
 だいたい5万くらいかな……」と答えると、たいて 
 い相手はびっくりする。でも、中にはひねたヤツが 
 いて「で、オマエはそのうち何個書けるのだ?」な 
 んて聞いてくる。そういうヤツらは「うーむ、数千 
 個かな……」と答えてやると、決まって安心したよ 
 うな顔をするのがおかしかった。         
  時代は変わり、ノートPCを抱えて取材に行き、 
 PC通信で原稿を送るのが当たり前になった。国内 
 でと同様、ヨーロッパにおいても目覚ましい勢いで 
 携帯電話が普及し、GPライダーの多くと電話で連 
 絡がとれるようになった。94、95の2年間、本誌G 
 Pページの編集を担当した今井クンのように、編集 
 部からライダーの携帯電話に国際通話をし、コメン 
 トをとるなんてことができるようになった。    
  映像は、専門誌の編集者なら、今や日本にいても 
 リアルタイムでノーカット版、つまり、現地のプレ 
 スルームのモニターに映っているのと同じものを見 
 ることができるようになった。実際、本誌でも、そ 
 れを元に書かれたレポートがいくつかある。    
  問題はフィルムだ。カメラマンが撮影したフィル 
 ムを現地で現像し、スキャンして電送するという手 
 段が使えることは使えるのだが、まだまだ雑誌の紙 
 面を飾るにふさわしいクオリティーを満たしていな 
 い。で、こればかりはレースの翌日・月曜日に現地 
 を発ち、火曜の朝あたりに成田に着く便で、誰かが 
 持ち帰ることになる。              
  木曜に日本を出て、その日のうちにヨーロッパに 
 着き、レンタカーを借りてサーキットの近くまで行 
 く。そして金・土・日の3日間取材をし、決勝が終 
 わってから空港の近くまで走り、月曜日の飛行機で 
 日本に向かうというパターンだ。この木曜出の火曜 
 帰りを、去年は5回やった。           
  そうして火曜の午後に現像所に入れられたフィル 
 ムは、早ければその日の深夜、遅くとも水曜日の午 
 前中にはできあがってくる。大急ぎで写真を選び、 
 レイアウトに出し、原稿の到着を待って入稿すると 
 いうのが通常のスケジュールだ。         
 『そんなに急いでどうするの?』とか『しょせんテ 
 レビや新聞にはかなわないのに』なんてことを考え 
 ているヒマもないって感じだ。そして、毎年繰り返 
 される(しかも毎年確実にスピードアップしている)
 ドタバタ劇に嫌気がさすころ、毎年決まってシーズ 
 ンオフがやってくる。そしてまた、春先になると、 
 ドタバタ劇も移動の辛さも忘れ、JALNETでフ 
 ライトスケジュールを調べ、内外の旅行代理店に電 
 話をかけまくってチケットの価格を調べ、スペイン 
 行きのチケットを買ってしまうのである。     
                         


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