恋の片道切符を抱きしめて |
●その1 「えーっ。何よ、これ?」 「どお?」 「どおって? 私にくれるの?」 「まさか…」 「じゃあ、何なのよ?」 「あのう…、これ、彼女に似合うかなぁ?」 「彼女って? 裕子ちゃんのこと?」 「うん」 「似合うんじゃない。でも、ブルー系統の色を選ぶってのがあなたらしいわね」 「それでね…」 「どうしたの?」 「今から、渡しに行こうと思うんだけど、どうかなぁ?」 「でも、純平の話だと、彼女、スキーに行ってるっていうじゃない」 「それくらいわかってるよ。いっしょにバイトしてるんだから…。今週になって急に寒くなったから、おととい、急に行くことになったんだって」 「それじゃ、あなた、スキー場まで行くってわけ?」 「うん。ここからなら450kmくらいだから、今から出れば、夜明けまでには着けると思うんだ」 「オートバイに乗ったサンタクロースってわけね?」 「そうなんだ」 「危ないから止めなさいって言っても、聞かない性格だってのは知ってるわよ」 「で、家にはさぁ、純平ところに泊まるってことにしてあるから、頼むよ、お姉」 「仕方ないわねぇ…、わかったわ。純平が帰ってきたら、そう言っとくわ」 ●その2 1977年12月24日。午後10時。水銀燈に冷たく照らし出されたブルー・グレーのランプウェイを通り、隈のように無表情な係員から通行券を受け取った。ゲートをくぐり抜けたところでオートバイを左端に寄せて、メインスタンドをかけた。それまでの2ストロークから、4ストロークの2気筒に乗り換えて、初めての遠出だった。 家の者に見つからないように、こっそり持ち出してきたスキー用のピステとパンツを身につけ、その上に今までのベルスタッフの上下を着込んだ。早く走り出さないと暑くてかなわない。 純平の姉貴がきれいに包装してくれたプレゼントは、とっておきのJ・プレスの白い紙袋に入れ、それをさらに四ツ切の印画紙用の黒いビニール袋に入れてあった。それと通行券だけを、スキーウェアを入れてきたバッグに入れ、シングルシートのテール部分にしっかり括りつけた。 エンジンをかけようとしていると警官が歩み寄ってきた。例の職務質問というやつだ。急いでいたので素直に免許証を見せた。どこへ、何しに、などと関係のないことを尋ねてきたので「志賀高原までスキーをしに…」と答えると、呆れたのか、彼はそれ以上何も言わずに立ち去った。 警官がパトカーに乗り込み、ドアを閉めるのを待ってエンジンをかけた。彼の目の前で始動するには、ダンストールのマフラーをつけたTX650の排気音は、少しばかり大きすぎるような気がしたからだ。 さっきのパトカーが追走してこないのを確認して本線車道に駆け上がった。雲の切れ目から、ところどころ星がのぞいていた。 ●その3 「これなんか、どお? あいつに似合いそうじゃない?」 「そうねぇ。ところで、あなたは?」 「俺?」 「そうよ。裕子ちゃんに、何かプレゼントしないの?」 「俺が?」 「だって、あなた、彼女のこと、好きなんでしょ?」 「……」 「あたし、協力するわよ」 「えっ?」 「私に敏和クンのこと紹介してくれたの、あなたなんだから」 「……」 「もしかすると、最後のチャンスかもしれないわよ」 「えっ? それ、どういう意味?」 「ううん、ただ、何となくそんな気がするの」 「そうか…、じゃあ、冬眠を覚まさなくちゃならないな」 「冬眠って?」 「彼女、そう言ってたんだ。しばらく冬眠するんだって…」 ●その4 3500回転ごとにシフトアップをくり返し、100km/hで本線に合流した。排気音を楽しむ乗りかたが身についてしまっていたが、トップに入れて4500回転をキープすることにした。元々ハイギアードなTX650のドリブンスプロケットを、さらに2枚小さなものに交換していたので、高速道路を一定のペースで走るには楽だった。 加速が終わるとすぐに短いトンネルを2つ抜け、サービスエリアを左手に見ながら緩い左カーブに出る。そのあたりでもう、首筋と指先から寒さが襲ってきた。ベルのマグナムにスキー用のゴーグルなので、顔は吹きさらしだったが、慣れのせいか、まったく苦にはならなかった。フルフェイスヘルメットの、吐いた息が口元にまとわりつく、あの感触がたまらなく嫌だった。 40分ほど走ると、急に排気音が変化した。ガス欠だ。タンクの両側についているフューエルコックをそれぞれリザーブの位置にし、次のサービスエリアに入った。 休憩よりも先に給油をするのが僕の流儀だ。310km走行して14リットル入った。市街地走行をふくめての数字としてはまずまずだ。エンジンオイルの消費量にも問題はなかった。 ガソリンスタンドから引き返し、木製のベンチの前にサイドスタンドでオートバイを停め、ハンドルを右に切って前輪がベンチのほうを向くようにした。アンバーの冷たいベンチに腰を下ろし、ゆっくりと煙草に火をつけた。TX650は、この角度から眺めた姿が一番好ましい。ツーリングの途中のコーヒーブレークなどでも、窓越しにオートバイの見える席に座れれば御機嫌だった。 少し離れたところにはスキーツアーのバスが何台か停まり、カラフルな若い男女がたむろしていた。おとといの夜、彼女も同じようにしていたのだろうか…、と、ふと思った。 一服し終えるとすぐにサービスエリアを出た。まだ志賀高原までの4分の1しか来ていなかった。 ●その5 「おい」 「何ですか? マスター」 「おまえ、容子ちゃんに彼氏紹介してやったんだって?」 「ええ、敏和っていって、僕や純平の同級生だったんです」 「なるほど。おまえがねぇ…」 「えっ?」 「いや、容子がおまえに女の子を紹介したっていうなら話はわかるけど、おまえが容子にねぇ…」 「僕、友達はたくさんいるんです」 「同性の友達は、ってことだろ?」 「ええ、まあ…」 「ま、女の子よりオートバイのほうが大事なおまえのことだから、それはいいけど、そんなおまえが容子のような八方美人に彼氏を紹介したってのが驚きだねぇ…」 「そりゃあ、頼まれましたから…」 「で、その代りに女の子を紹介してもらったとかいう話は?」 「別に、ありませんよ」 「おまえも、頼まなかったのか?」 「ええ」 「まったく、おまえってやつは、あの何とかってオートバイが彼女なんだから、仕方ないねぇ…」 「……」 「ところで、同性の友達の多いおまえに頼むんだけど、裕子ちゃんにも彼氏を紹介してやってくれないかなぁ?」 「えっ?」 「前の彼氏と別れてからずいぶん経つけど、まだ何となくおかしいと思わないか?」 「そうですか?」 「容子が例の調子だから、よけいに目立つのかも知れないけど…」 「……」 「誰か、いないかねぇ?」 「裕子ちゃんがそう頼んだのですか?」 「いや、そういうわけじゃないが…」 「だったら、いいじゃないですか」 「……」 ●その6 少し走ると峠にさしかかる。冬場は積雪で有名な区間だけあって、路面こそ乾いているものの、両側に積もった雪がぼんやりと白く見える。山あいの小さなインターチェンジを過ぎ、下りのカーブをいくつか抜けると、急に視界が開け、オリーブグリーンに眠る濃尾平野の退屈な直線区間に入った。 寒さは相変わらずだったが、オートバイも僕自身も快調そのもので、自然と鼻歌が混じってくる。こんなときはいつも、ビートルズのTHE LONG AND WINDING ROADだが、歌いながら、まさにぴったりの曲のような気がした。 スキーツアーのバスを何台も追い越した。早朝にゲレンデに着くツアーがほとんどだから、このあたりで抜いておかないと明け方までに志賀高原には着けない。追い越し車線に入ってしばらくバスと並んで走ると、まだ起きている連中がこちらを見下ろす。十分に彼らの視線を引きつけておいて一気に振り向いてやる。そのときの彼らの表情がおもしろかった。間もなく“中央道分岐2km”の標識。午前0時になった。 アップダウンを繰り返しながら中津川へ向かう中央道の、最初の長い直線のところで雨が降ってきた。通り雨であることを願いながら走り続けたが、中津川を過ぎ、上り坂だけになるあたりから雨足は激しくなり、恵那山トンネルまでに土砂降りになった。 雨水が、首筋や縫い目などから侵入しはじめた。ベルスタッフのジャケットとオーバーズボンとはいっても、オイルびきのものではなかったので、少々の雨なら生地の厚さで防げても、高速で長時間走行するには役に立たず、本物の雨ガッパを持ってこなかったことを悔やんだ。出発前に描いたシナリオには、雨が降るなどということは1行も書かれていなかったのに…。 ●その7 「おーい」 「あっ、何だ純平かぁ…」 「相変わらずオートバイ屋だな」 「うん。今日はこいつに名前をつけてやったんだ。ほら、ここに“4472・フライングスコッツマン”って入ってるだろ」 「何だ、それ?」 「イギリスの、由緒あるSLの名前さ。XS-1のほうは“6201・プリンセスエリザベス”ってことにした」 「……」 「ところで、何か用?」 「いや、さっきちょっと、おまえのバイト先に寄ったんだ」 「すると、俺がいなくて、裕子ちゃんがやってた。それで俺んとこへ来たんだろ?」 「その通り。彼女から伝言を頼まれてきた」 「えっ?」 「前におまえに言ってたらしいけど、24日と27日のバイト、代ってくれってさ」 「だって…」 「だめなら容子ちゃんに頼むって…」 「いや、そうじゃない。スキーは中止のはずじゃなかったのかなぁ…」 「それが…、このところの寒波で、急に滑れることになったんだって」 「そうか…、で、いつから行くって言ってた?」 「明日の夜らしいよ」 「……」 「それで、バイトの件、今日の閉店までに電話してくれって」 ●その8 あまりの冷たさのため、トンネルに入って1つ目の非常駐停車場所に停まった。雨も寒さも防げるだろうと思ったが、雨は防げても、寒さは走っているときよりもひどく感じた。交通量の多い名神や東名のトンネルとはわけが違った。 湿った煙草に火をつけようとしたが、ライターが濡れていて点火しなかった。エンジンの上に置いて乾くのを待った。トンネルが木曽山脈にぶつかる風の通り道になっているらしく、冷たい風がひっきりなしに身体に突き刺さってくる。濡れた身体からどんどん体温が逃げていくので、雨の中を走っているほうがましだった。 じっとしていると寒くてたまらないので、ライターが乾くまでの間、トンネルの中をうろうろした。通過する車のドライバーからは、さぞ滑稽に見えたことだろう。何度か引き返そうかと考えたが、トンネルの向こう側は星空だと自分に思い込ませ、再び走りだした。時刻は午前2時を過ぎていた。 トンネルを抜けると、そこでは岐阜県側よりもさらに激しい雨と風が待ち受けていた。着ているもの全部が水分を保っているので、氷水に浸かっているのと同じだ。身体じゅうの感覚はすでになく、ただ、右手でアクセルを開けているだけ。どういうわけか、意識だけが、まるで他人のように冴えわたっていた。 こうなれば恐ろしいもので、ペースは雨が降り出す前と同じくらいになり、吹きさらしの頬にぶつかる雨つぶの痛みさえわからない。 ●その9 「裕子ちゃん、やっぱり行っちゃったのね」 「うん」 「あなた、このあいだのプレゼント、どうしたの?」 「それが…、まだ持ってるんだ。行くまでに渡そうと思ってたんだけど、会えなかったんだ…」 「うそ。会えなかったんじゃなくて、会わなかったんでしょ」 「そうかもしれない」 「何言ってるのよ。そうに決まってるわ。本当にダメなんだから、あなたって人は」 「……」 「仕方ないわ。彼女が帰ってきたら、すぐに渡すのよ。それから、明日の晩、彼女に電話なさいよ」 「電話って?」 「バカねぇ。帰ってきたら渡したいものがあるって言えばいいのよ。泊まってるところの電話番号は、私が裕子ちゃん家に電話して聞いてあげるから」 「……」 「どうしたの?」 「ちょっと、待って」 「……」 「あさってのバイト、代ってくれないか?」 「何よ、急に」 「俺、行ってくる。プレゼント渡しに…」 「行ってくるって、スキー場まで?」 「うん。だから、あさってだけ代ってくれよ」 「あなた、まさか…」 「オートバイなら、明日の夜出て、あさってじゅうには帰ってこれるから…」 「……」 ●その10 駒ヶ岳のサービスエリアが見えた。うまくブレーキをかけられないので、左手でハンドルを支え、右手の掌全体でブレーキレバーを手前に引く。それでも濡れて冷えきったフロントブレーキが効くまでには、少しの時間が必要だった。シフトダウンすれば、TX650の強力なエンジンブレーキを利用できるのだが、左手に、重いクラッチを握れるだけの力は残っていなかった。リアブレーキは、つま先さえいうことをきけば操作できるのだが、それは無理だった。一度、かかとでブレーキペダルを踏んづけて恐ろしい目にあった。 流儀に反して、ガソリンを入れる前にガソリンスタンドの事務室に飛び込んだ。あっけにとられる職員の前で服を脱ぎ、ストーブに抱きつくが、感覚が戻って熱さがわかるようになるまで、かなり時間がかかった。 感覚が戻ってくると、今度はどっと眠気が襲ってくる。今頃、オートバイでどこへ行くのかと聞かれたので、志賀高原までスキーをしに行くんですと答えると、職員氏は真顔で「気をつけて」と言ってくれたが、僕が出て行った後、みんなで笑っていたんだろうな、きっと…。 駒ヶ岳のサービスエリアを出て10分ほどで自動車道の終点・伊北インターチェンジに着いた。料金を払うために停車し、足を着こうとしたが、膝から先がいうことをきかず、料金所のブースに倒れかかった。さいわい大きなダメージはなく、料金を払い終えるとあわてて一般道に出た。暇そうな料金徴収係氏の眠気覚ましにはなっただろう。 一般道には信号があり、夜中だというのにまともに作動しているやつが多かった。発進・停止の操作がうまくできないので、見通しの良いところでは信号無視をし、見通しの悪そうなところでは、赤だったら手前から減速し、青に変わるのを待って通過した。凍えきった左足で、まともにギアチェンジできるわけはなかった。 知らない間に松本を過ぎ、犀川沿いのワインディングロードを通る。夏のツーリングでは昼間に通ったのだが、それでも眠たくなったのを思い出した。似たような橋がいくつもあるので、同じ場所をぐるぐる回っているような気がしてくる。眠気で思考力がなくなり、目から右手へ、判断抜きで、条件反射的にアクセルを操作していたようだ。身体じゅうで、目と右手だけが眠っていない状態だった。 ●その11 「ごめんね。こんな遅くに呼び出したりして」 「いいわよ。で、相談って何なの?」 「うん、実はね、みゆきちゃん…。もし君がスキーに行ってて…」 「私が?」 「いいから…、最後まで聞いてよ」 「……」 「で、ホテルかどこかに泊まってるとする。そして、ある朝、朝食を食べているとホテルの人がやってきて、これをお預かりしました、とか何とか言って、君に小包みたいなのを渡す」 「それ、何なの?」 「何だろうと思って開けてみると、君の好きそうな…、そうだな、アクセサリーか何か。この場合はデザイナーズブランドのスカーフなんだけど。それが出てくる」 「私だったら驚くわねぇ。でも、ちょっと気味悪いんじゃない?」 「どうして?」 「だって、なぜ私がそんな物もらえるの?」 「そこで君は、さっきのホテルの人に聞くんだ。誰から預かってくれたのかって。すると彼は、今朝早くにオートバイに乗った男の子がやってきて、これをあなたに渡すように言うとすぐに帰りました、と言うわけだ」 「その男の子って、あなたのことなんでしょ? だんだんわかってきたわ」 「ま、そうなんだけど、その男の子が僕じゃなくて、君がよく知ってるけれど普段はほとんど意識したことのない子だとする…」 「そこで私なら感激して、グッとくるかどうかって?」 「うん」 「そりゃぁうれしいわよ。で、あなた、本当にやるわけ?」 ●その12 長野付近で空が明るくなってきたが、雨はみぞれに変わって、依然降り続いていた。このあたりまで来ると、意識は朦朧として寒さを感じることもできなかった。 途中のガソリンスタンドの事務室でストーブの前の椅子に座ったのがいけなかった。気がつくとみぞれは止み、近くに朝日を受けたコンポーズブルーの山並みがまぶしかった。1時間以上も寝てしまっていた。 午前9時。やっと湯田中にたどり着いた。ここまで来ると、道路以外のところには雪が積もっていて、熊の湯までの道が心配になったが、行けるところまで行かないと気が済まない。 有料道路の入り口までは除雪されていた。が、そこで地面は見えなくなっていた。それでも、足を着きながら前進したが、ひとつ目の急な登り坂のところで動けなくなった。仕方なく湯田中まで引き返し、バスの客になる以外に方法はなかった。湯田中駅前にオートバイを停め、ディーゼル機関とタイヤチェーンのうるさいバスに揺られ、硯川バス停で降りた。 ベルスタッフを脱いでいたので、スキーウェアを着てはいるものの、全体にたっぷりと水分を含み、顔は疲労と水しぶきの乾いた泥と土の混じった色をしたまま、バス停から志賀パレスホテルへの坂道を登っていった。思えば、このあたりからすでに、事実は僕の考えたシナリオを無視し、勝手に望ましくないストーリーを展開しはじめていたのかもしれない。 ●その13 「え〜〜っ! 誰かと思ったら!」 「……」 「どうしたの、その格好?」 「途中でちょっと、雨に降られたんだ」 「……」 「はい。これ…」 「えっ?」 「いいから、取っときなよ。俺、もう帰らなきゃなんないから…」 「ちょっと待ってよ。一体これはどういうわけなの?」 「それがクリスマスプレゼントで、この俺がバカだってこと」 「それじゃあなた、まさか…。え〜っ。オートバイで来たの?」 「うん」 「ありがとう! でも…、いつ頃出てきたの?」 「ゆうべ遅くに出たんだ…。あ、バイトのことなら心配いらないよ。昨日はちゃんと俺がやって、今日は容子ちゃんが代ってくれてるから…」 「あなた、ずいぶん疲れてるんでしょう?」 「少しはね。ところで、スキーはうまくなったのかな?」 「それが、お天気が悪くって。今日も朝から降ってたから、これから滑りに行こうかなと思ってたところなの」 「そう。じゃ、俺はこれで帰るから…」 「待ってよ!」 「……」 「少し、休んでいったほうがいいわ」 「でも…」 「近くにいいお店があるの。行きましょうよ。私、お昼食べてから滑りに行くわ…。ちょっとだけ待ってて。着替えてくるから」 ●その14 踏み固められた上に、うっすらと新雪ののった小径で、5歩ばかり先をゆくペルシャンブルーのブーツの軽い足どり。 オフホワイトのパンツとコーラルのセーターの間に揺れるウェストバッグのイェロー。その上に軽くはおったスカーフのクリムソンレイク。ブルーとローズの混ざったニットキャップのフレンチグレー。時々ストックを突く動作を見せるグローブのローズピンク。 後から歩く僕の足どりが遅れがちだったのは、セルリアンブルーの空とゲレンデの放つ光線に映える、それらの色に幻惑されそうだったからに違いない。そして、それらの色の輪郭が次第にぼやけたものとなり、混ざり合うかのように見えたのは、睡眠不足からくるまぶしさだけのためではなかったはずだ。 山小屋ふうの店に入り、ドライフラワーの下にあるウォルナットの椅子に腰掛けた。頭の中が混乱していた。極度の疲労に緊張が重なったからに違いない。視覚以外の感覚は、半分眠ったような状態が続いていたので、彼女との会話も、救いようのない錯雑としたものだったような気がする。やはり夜のうちに着いて、彼女には会わずに引き返したほうが良かったのだろう。 彼女と別れた後、むしろほっとした気分でバスに乗り、オートバイの待つ湯田中駅前へと向かった。バスを降り、はね上げた泥が乾いて素焼きのようになったマフラーのTX650に再び跨ったのは、予定よりも大幅に遅く、午後2時を過ぎていた。 長野、松本を過ぎ、伊北のインターチェンジへ向かう途中で日が暮れた。と同時に雪が舞いはじめた。駒ヶ岳サービスエリアで1時間ほど休憩したときは小雪だったが、飯田を過ぎるあたりから本格的な降りとなり、路面にシャーベット状の雪が積もりはじめた。 積雪は長野県側だけだろうという期待は見事に裏切られ、恵那山トンネルを出たところで本線は閉鎖され、全車、チェーン装着場に入らなければならなかった。 ●その15 「何ですか?」 「何ですかって、君、チェーン規制なんだから…」 「そんなこと言っても、オートバイにチェーンなんてできませんから…」 「それなら、しばらくここで待っていなさい」 「しばらくって、いつまでなんですか?」 「チェーン規制が解除されるまでです」 「それは、いつごろなんでしょう?」 「さあ…、明日の昼前には、たぶん…」 「えーっ、それは困ります。朝までに京都に着かないと…」 「君ねぇ、だいたい、今ごろオートバイでこんなところに来るからいけないんだよ」 「そう言われても、来てしまったものは仕方ないでしょ。どうしても通っちゃダメですか?」 「危ないからダメだって言ってるのがわからないのか?」 「ゆっくり走れば、危ないとは思いませんが…」 「君には雪の恐さがわかってないんだ」 「……」 「とにかく、しばらく待ちなさい。途中で事故でも起されたら、私の責任だから」 「大丈夫です。ここまでだって雪の上を走って来たんですから…」 「でも、チェーン規制は、されていなかったはずだ」 「規制なんて、関係ないと思うんですが…」 「……」 「あなたが、見ていなかったことにしてくれるとありがたいんですけど」 「それは、どういう意味だ?」 「だから、僕が事故を起しても、あなたに責任はないと…」 「……」 「あなたの制止を無視した、ということにしてもかまいませんが…」 「もういい。勝手にしなさい」 「じゃ、行っていいんですね?」 「私は知らん」 「ありがとう。それじゃ行きます」 ●その16 中津川までの道はM確かにひどいものだった。雪はやや小降りになっていたが、全神経を目に集中させて固そうな轍を探し、細心のアクセルワークとバランスコントロールが必要だった。睡眠不足の身体には相当にこたえる作業で、恵那峡と内津峠のサービスエリアで、それぞれ1時間ほどの仮眠を余儀なくされた。 名神に入ると、積雪こそなくなったものの、雪は、僕がこれまでに経験したことのないほど激しい降りかたになった。走りながら、ふと居眠りをして気がつくと、ゴーグルのレンズに積もった雪で前が見えないことが何度もあった。あわてて左手で払いのけたところで、見えるものといえば、ヘッドライトに照らされ、こちら目がけて猛スピードで飛んでくる無数の雪の粒だけ。その向こうに時々、かすかに見えるガードレールを頼りに進まなければならなかった。 何度か、左の膝がガードレールに接触して、全身の毛が逆立つほど驚いたにもかかわらず、次の瞬間にはまた居眠りをしてしまう。睡魔というのは、こんな極限状況でも襲ってくるものらしい。 這々の態で養老のサービスエリアまでたどり着くと、その先、彦根までの区間は通行止めになっていた。しかし、そんなことは、もう、どうでも良かった。身体は一刻も早く眠ることを要求していた。サービスエリアの出口近くに、バラック造りの道路管理用の詰所を見つけた。驚く係員をよそに「少し休ませてください」と言うが早いか、中のベンチの上で寝入ってしまった。 あたりの騒がしさに気付くと、午前3時を過ぎていた。除雪が済み、通行止めは解除され、チェーン規制に変わっていた。恵那山トンネル出口でのいきさつを話し、すぐ先の関ヶ原インターまで、という条件付きで通行を許可してもらった。 関ヶ原からは湖東の国道をひたすら走り続け、逢坂山を越える頃には、あたりはすでに明るくなっていた。 早い通勤の車に混じって、泥だらけのTX650に跨りながら、オートバイ乗りとしての誇りにも似た気持ちが湧いてくるのを感じつつ、通い慣れた道を家に向かった。 ●その17 僕の TX650に乗って初めての そして10代最後のツーリングは その後のなりゆきともども悲惨なものだった。 Don't keep me standing here の願いもむなしく…。 今でもスキーシーズンになると 必ず 8年も前になるこのツーリングを なつかしく思い出してしまう。 |