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1964年の50cc世界選手権出場車として、1963年3月より2気筒エンジンの開発を進めていた。1963年3月にRM64X(2気筒、φ31×33mm)の試作エンジンを手配。12月にはボア×ストロークを変更したRM64Y(φ32.5×30mm)を試作。1964年1月には、さらに改良を加えたRM64YU(φ32.5×30mm)を試作し開発実験を進めた。いっぽう、単気筒エンジンは、1963年6月下旬にRM63を水冷化したRM63Aを試作手配。12月には空冷のままボア×ストロークを変更したRM63Y(RM62、RM63のφ40×39.5mmをφ41.5×36.8mmに変更)を試作し、開発を進めた。 このように単気筒空水冷と2気筒の両エンジンで開発を進めたが、1964年2月28日、相当大幅な性能向上を得ることができた単気筒のRM63YをベースとしたRM64で1964年の選手権レースを戦うことに決定した。2気筒を採用できなかった最大の理由は、最高出力の持続性の問題(いわゆるエンジンのタレ)だった。1964年の選手権レース後半戦は、ホンダ2気筒に乗るBryansに大分おびやかされはしたが、3年連続でメーカー(スズキ)と個人(アンダーソン=Hugh Anderson)の両タイトルを獲得できた。 この年、クライドラー(Kreidler)の選手権奪還に賭ける意気込みはすさまじく、名手タベリ(Luigi Taveri)が最終の日本GP以外の全レースにクライドラーで出場、プロビーニ(Tarquinio Provini)も前半4レースにクライドラーで出場したが、いずれも好成績は残せなかった。さすがのタベリ、プロビーニにしても、手動3段×足動4段の計12段変速機を自在に操ることは難しかったのであろう。なお、最終戦の日本GPは、両タイトルが決定していたため、スズキは参加しなかった。
1964シーズン第1戦のアメリカGPは、RM64が間に合わず、アンダーソンと伊藤光夫がRM63Y、森下勲がRM63で出場。アンダーソン、森下、伊藤が1、2、3位。クライドラーのアンシャイト(Hans Georg Anscheidt)とベルトワーズ(Jean-Pierre Belletoise)が4、5位。クライドラーに移籍後初戦となるプロビーニはリタイア。ホンダは不参加だった。 第2戦のスペインGP(14周)は、公式練習で地元デルビ(Derbi)のブスケス(Jose Busquets)が飛び抜けて速く、レースでも2周目から12周目までトップを走ったがリタイアした。彼のマシンは“オーバーサイズ”の噂もあった。結果はアンシャイトが優勝、アンダーソン、伊藤、森下が2、3、4位(スペインGPからは全車RM64で出場)、デルビのニエート(Angel Nieto)が5位、クライドラーのタベリが6位、ホンダのブライアンズ(Ralph Bryans)、高橋国光、ロブ(Tommy Robb)はリタイアした。 第3戦のフランスGP(8周)は、アンダーソンが独走の優勝、ブライアンズは2番手を走っていたが3周目にリタイア。2、3位はクライドラーのアンシャイトとベルトワーズ、4位はデルビのブスケス、5位に森下(最終ラップ3位だったが転倒)、6位はクライドラーのプロビーニ。伊藤は不調のため1周でリタイアした。
第4戦のマン島TT(3周)は、公式練習で伊藤が1位となり、TTレース連覇が期待された。決勝のスタートは、最初にアンシャイトと越野晴雄(スズキ)、10秒後にアンダーソン、20秒後にブライアンズ、30秒後に森下とD・シモンズ(Dave Simmonds、トーハツ)、40秒後にタベリ、70秒後に谷口尚巳、80秒後に伊藤とM・J・シモンズ(Mike J. Simmonds、トーハツ)、90秒後にプロビーニの順。 1周目のサルビー(Sulby=中間点)での順位(すべてスタート時差修正済み)は、アンダーソン、伊藤(15秒遅れ)、森下(17秒)、アンシャイト(18秒)、越野(19秒)、谷口(25秒)・ブライアンズ(27秒)、そしてクライドラーのタベリとプロビーニ。1周終わっての順位は、アンダーソン、伊藤(8.4秒遅れ)、アンシャイト(9.2秒)、越野(10.0秒)、森下(17.2秒)、谷口(19.0秒)、ブライアンズ(26.6秒)、タベリ、プロビーニ。 2周目のサルビーでは、マシンの調子がやや落ちた伊藤がアンシャイトに抜かれ3位に落ちる。アンダーソンと2位アンシャイトの差は25秒。またブライアンズと谷口の順位も入れ替わる。2周目を終えての順位は、アンダーソン、アンシャイト(36.4秒遅れ)、越野(37.4秒)、伊藤(42.8秒)、森下(45.8秒)、ブライアンズ(49.0秒)、谷口、タベリ、プロビーニで、伊藤の連覇の夢は消える。マン島TT初出場の越野が頑張っている。 最終ラップのサルビーでの順位は、アンダーソン、アンシャイト(57秒遅れ)、続いて順位を大きく上げたブライアンズ(60秒)、森下(63秒)、越野(69秒)、伊藤(73秒)、谷口、タベリ、プロビーニ。ゴールは、アンダーソン、ブライアンズ(61.4秒遅れ)、森下(62秒)、アンシャイト(64.6秒)、伊藤(69秒)、谷口(79.6秒)、タベリ、プロビーニ。越野は野ネズミをよけ損ない転倒リタイア。2位ブライアンズと5位伊藤までのタイム差は僅か8.6秒の大接戦だった。かくして、スズキは1962年以来の“マン島TT3連覇”を飾った。
続く第5戦オランダGP(8周)は、3周目まで、アンダーソンがトップでブライアンズがすぐあとに続くという展開だったが、アンダーソンがクランクホイール広がりという珍しいトラブルでリタイア。その後はブライアンズが独走で優勝。森下、伊藤光夫が2、3位。クライドラーのアンシャイトとファン・ドンゲン(Cees Van Dongen)が4、5位。越野はチェンジレバー折損でリタイアした。ホンダ2気筒マシンは、昨年の日本GP以来の勝利だった。 第6戦ベルギーGP(5周)は、4周目の途中で森下が不調(ヘットガスケット漏れ)になるまで、ブライアンズ、アンダーソン、森下、伊藤、アンシャイトの5名によるダンゴのレース展開だった。結果はブライアンズ、アンシャイト、アンダーソン、伊藤光夫、森下、クンツ(Rudolf Kunz、クライドラー)、ファン・ドンゲンで、1〜4位までのタイム差は、僅か3.2秒の接戦だった。レース後アンダーソンのマシンを分解チェックしてみると、ピストンリングが膠着していた。越野は、バルブプレートが割れてリタイアした。 第7戦西ドイツGPは、先に行われた125ccレースで転倒したアンダーソンが出場できず、伊藤、森下で戦うことになった。結果はブライアンズの独走優勝。続いて森下、伊藤、アンシャイトの順だった。オランダGP以降、ホンダの2気筒マシンは確かに速くなり、かつ安定性が増した。これで優勝回数は、スズキとホンダが各3勝で並び、クライドラーが1勝となった。
第9戦の日本GPは、メーカー・個人タイトルとも決定していたため、スズキは50ccクラスへの参加を取り止め、125ccに総力を集中した。このため、出場車両はホンダの5台のみとなり、レースは不成立で、模擬レースを行った。 |
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■トラブル続きの1964年・125cc いっぽう、1964年の125cc世界選手権出場車・RT64は、“RT63よりさらに出力をアップさせよう”というコンセプトで設計・実験が行われた。前年の日本GPに初出場した水冷のRT63Aエンジンも並行して開発していた記憶はあるが、空冷のほうを優先していた。1963年の出場レースにおけるRT63は、性能的にずば抜けた優位性を持っていたから、ある程度の出力アップを行えば、この年も勝てると考えていたのである。 |
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開発の結果、出力は4Ps以上アップした。大きな変更個所は、エキゾーストパイプの改良、キャブレター口径の拡大などであった。なお、キャブレターは新設計のものを採用した。日本国内のテストでは特に問題も発生せず、自信をもってヨーロッパに向かい、ホンダ4気筒と争うことになった。これに先立つ第1戦アメリカGPにはホンダは参加せず、旧型のRT63でアンダーソンが1勝を挙げた。 しかし、ヨーロッパに渡ってからのレースでは、我々の自信と期待に反し、スペインGPからイタリアGPまでの9戦中、僅か東ドイツGPとアルスターGPでの2勝(いずれもアンダーソン)しかできなかった。前年は経験しなかったトラブルが多発したためである。プラグかぶり、ピストンの焼き付きや溶損、ピストンリング関係のトラブル、クランクギアの折損、および昨年より発生件数は減ったがコンロッド大端の焼き付きなどである。 |
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■125ccはメーカー、個人、両タイトルとも連覇ならず ヨーロッパ初戦のスペインGP(第2戦)は、タベリとトップを争っていたアンダーソンが序盤でピットイン。スズキは出走3台全車がプラグかぶりでピットインする始末。結果は、タベリ、レッドマン(Jim Redman、ホンダ)、エイブリー(Rex Avery、EMC)、シュナイダー(Bert Schneider、スズキ)、アンダーソンの順で、ペリス(Frank Perris、スズキ)は9位。高橋国光(ホンダ)はリタイア。 第3戦のフランスGPは、アンダーソンがトップだったが、2周目ピストン焼き付きでリタイア。優勝はタベリ。続いてシュナイダー、ペリス、高橋の順。 第4戦マン島TTは、優勝したタベリと同時スタートのアンダーソンが1周目途中までタベリをリードするも、コンロッド大端焼き付きでリタイア。ペリスは1周目トップのレッドマンに0.2秒遅れの2番手と健闘したが、2周目にクランクギア折損でリタイア。シュナイダーも1周目にピストン焼き付きでリタイアと、スズキ勢は全滅。 第5戦オランダGPには、前年RT63で使用したタイプのキャブレターを使うことにした。このキャブレターの口径は、RT63のφ24に対しφ26に拡大されていた。スペインGPからマン島TTまでの3戦で使用したキャブレターは、スロットルバルブ中心から取り付けフランジ面までの距離を短くしたニュータイプのφ26だったから、口径はそのままに、形式を旧タイプに戻したわけである。 しかし、十分なセッティングが得られなかったためか、コーナーでの立ち上がり加速性が悪く、出走3台とも初めて完走したものの、シュナイダー、アンダーソン、ペリスが4、5、6位という成績に留まった。優勝はレッドマン。2位は2気筒初出場のリード(Phil Read、ヤマハ)。3位はブライアンズだった。 第6戦西ドイツGP(9周)では、アンダーソンが3周目に新ラップ記録を出し、2位以下を引き離し独走体制を築くかと思ったが、4周目に激しい降雨となり、スリップ転倒。ペリスはピストンリングトラブルでリタイア。優勝はレッドマン。続いてタベリ、シュナイダーの順となった。
第8戦アルスターGPは、ゴールまであと1周あまりというところまでペリスがトップだったが、かなり後方からじわじわと追い上げてきたアンダーソンがペリスをかわしトップに。これでスズキのワン・ツーフィニッシュかと思われた。しかしペリスはリードワイヤー断線?で後退。アンダーソンが東ドイツGPにつづき優勝。続いてタベリ、ブライアンズ、ペリス、シュナイダーの順でゴールした。 第9戦フィンランドGPは、トップのアンダーソンがピストン溶損により序盤でリタイア。その後タベリとペリスのトップ争いとなったが、ペリスは中盤でコンロッド大端焼き付きでリタイア。結果はタベリ、ブライアンズ、レッドマン、シュナイダー、エンダーライン(Klaus Enderlein、MZ)、クルンプホルツ(Dieter Krumpholz、MZ)の順となった。ここで125ccのタイトルは、メーカーがホンダ、個人はタベリに決定した。 第10戦イタリアGP。アンダーソンは、序盤、タベリに400メートルほど離された2番手だったが、徐々にタベリとの差を縮め、終盤にはあと50メートルにまで迫る。しかし逆転はならず、タベリが優勝。アンダーソンは2位。続いてデグナー、ブライアンズ、ペリス、レッドマンの順となった。 レース後、アンダーソンのエンジンを分解してみると、ピストンが焼き付き、ピストンリングも膠着していた。また、前年の日本GPで大火傷したデグナーが、このイタリアGPで約1年ぶりに復帰した。デグナーはスタートに手間どり、1周目の9番手から追い上げた末、3位に入った。
15周目、独走のアンダーソンがイグニッショントラブルでピットイン。その後は、デグナーがタベリの追撃を振り切って優勝。片山義美は3位に。なお久々に顔を見せたヤマハ伊藤史郎は良いところなく9周でリタイア。かくして、何とか前年度チャンピオンの面目を保って日本GPを終了した。 1964年125cc世界選手権レースは、ホンダ7勝、スズキ4勝。タベリ5勝、アンダーソン3勝で幕を閉じた。アンダーソンにとっても、全く不運な、ツキのないシーズンだった。西ドイツGPでの転倒、日本GPで、考えもしなかったイグニッショントラブルで優勝を逸したのが悔やまれる。 |
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