Good Old Days - The Emergence of the Japanese Racing Machines
1964年・250ccスクエア4参戦

THE ROAD TO THE GRAND PRIX TITLE
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■50ccは3年連続メーカー&個人タイトルを獲得

1964年の50cc世界選手権出場車として、1963年3月より2気筒エンジンの開発を進めていた。1963年3月にRM64X(2気筒、φ31×33mm)の試作エンジンを手配。12月にはボア×ストロークを変更したRM64Y(φ32.5×30mm)を試作。1964年1月には、さらに改良を加えたRM64YU(φ32.5×30mm)を試作し開発実験を進めた。いっぽう、単気筒エンジンは、1963年6月下旬にRM63を水冷化したRM63Aを試作手配。12月には空冷のままボア×ストロークを変更したRM63Y(RM62、RM63のφ40×39.5mmをφ41.5×36.8mmに変更)を試作し、開発を進めた。

1964年50ccマシン・RM64YU計画図。ボア32.5φと読める。


このように単気筒空水冷と2気筒の両エンジンで開発を進めたが、1964年2月28日、相当大幅な性能向上を得ることができた単気筒のRM63YをベースとしたRM64で1964年の選手権レースを戦うことに決定した。2気筒を採用できなかった最大の理由は、最高出力の持続性の問題(いわゆるエンジンのタレ)だった。1964年の選手権レース後半戦は、ホンダ2気筒に乗るBryansに大分おびやかされはしたが、3年連続でメーカー(スズキ)と個人(アンダーソン=Hugh Anderson)の両タイトルを獲得できた。

この年、クライドラー(Kreidler)の選手権奪還に賭ける意気込みはすさまじく、名手タベリ(Luigi Taveri)が最終の日本GP以外の全レースにクライドラーで出場、プロビーニ(Tarquinio Provini)も前半4レースにクライドラーで出場したが、いずれも好成績は残せなかった。さすがのタベリ、プロビーニにしても、手動3段×足動4段の計12段変速機を自在に操ることは難しかったのであろう。なお、最終戦の日本GPは、両タイトルが決定していたため、スズキは参加しなかった。

開幕戦、1-2-3の先頭に立つアンダーソン。

■好調な滑り出しの1964シーズン・50cc

1964シーズン第1戦のアメリカGPは、RM64が間に合わず、アンダーソンと伊藤光夫がRM63Y、森下勲がRM63で出場。アンダーソン、森下、伊藤が1、2、3位。クライドラーのアンシャイト(Hans Georg Anscheidt)とベルトワーズ(Jean-Pierre Belletoise)が4、5位。クライドラーに移籍後初戦となるプロビーニはリタイア。ホンダは不参加だった。

第2戦のスペインGP(14周)は、公式練習で地元デルビ(Derbi)のブスケス(Jose Busquets)が飛び抜けて速く、レースでも2周目から12周目までトップを走ったがリタイアした。彼のマシンは“オーバーサイズ”の噂もあった。結果はアンシャイトが優勝、アンダーソン、伊藤、森下が2、3、4位(スペインGPからは全車RM64で出場)、デルビのニエート(Angel Nieto)が5位、クライドラーのタベリが6位、ホンダのブライアンズ(Ralph Bryans)、高橋国光、ロブ(Tommy Robb)はリタイアした。

第3戦のフランスGP(8周)は、アンダーソンが独走の優勝、ブライアンズは2番手を走っていたが3周目にリタイア。2、3位はクライドラーのアンシャイトとベルトワーズ、4位はデルビのブスケス、5位に森下(最終ラップ3位だったが転倒)、6位はクライドラーのプロビーニ。伊藤は不調のため1周でリタイアした。

TT初優勝のアンダーソン(中)と3位の森下(右)

■接戦の末アンダーソンが優勝。50ccマン島TT3連覇を達成

第4戦のマン島TT(3周)は、公式練習で伊藤が1位となり、TTレース連覇が期待された。決勝のスタートは、最初にアンシャイトと越野晴雄(スズキ)、10秒後にアンダーソン、20秒後にブライアンズ、30秒後に森下とD・シモンズ(Dave Simmonds、トーハツ)、40秒後にタベリ、70秒後に谷口尚巳、80秒後に伊藤とM・J・シモンズ(Mike J. Simmonds、トーハツ)、90秒後にプロビーニの順。

1周目のサルビー(Sulby=中間点)での順位(すべてスタート時差修正済み)は、アンダーソン、伊藤(15秒遅れ)、森下(17秒)、アンシャイト(18秒)、越野(19秒)、谷口(25秒)・ブライアンズ(27秒)、そしてクライドラーのタベリとプロビーニ。1周終わっての順位は、アンダーソン、伊藤(8.4秒遅れ)、アンシャイト(9.2秒)、越野(10.0秒)、森下(17.2秒)、谷口(19.0秒)、ブライアンズ(26.6秒)、タベリ、プロビーニ。

2周目のサルビーでは、マシンの調子がやや落ちた伊藤がアンシャイトに抜かれ3位に落ちる。アンダーソンと2位アンシャイトの差は25秒。またブライアンズと谷口の順位も入れ替わる。2周目を終えての順位は、アンダーソン、アンシャイト(36.4秒遅れ)、越野(37.4秒)、伊藤(42.8秒)、森下(45.8秒)、ブライアンズ(49.0秒)、谷口、タベリ、プロビーニで、伊藤の連覇の夢は消える。マン島TT初出場の越野が頑張っている。



最終ラップのサルビーでの順位は、アンダーソン、アンシャイト(57秒遅れ)、続いて順位を大きく上げたブライアンズ(60秒)、森下(63秒)、越野(69秒)、伊藤(73秒)、谷口、タベリ、プロビーニ。ゴールは、アンダーソン、ブライアンズ(61.4秒遅れ)、森下(62秒)、アンシャイト(64.6秒)、伊藤(69秒)、谷口(79.6秒)、タベリ、プロビーニ。越野は野ネズミをよけ損ない転倒リタイア。2位ブライアンズと5位伊藤までのタイム差は僅か8.6秒の大接戦だった。かくして、スズキは1962年以来の“マン島TT3連覇”を飾った。

アンダーソン対ブライアンズ(オランダGP)

■フィンランドGPにて、50ccメーカー&ライダータイトル決定

続く第5戦オランダGP(8周)は、3周目まで、アンダーソンがトップでブライアンズがすぐあとに続くという展開だったが、アンダーソンがクランクホイール広がりという珍しいトラブルでリタイア。その後はブライアンズが独走で優勝。森下、伊藤光夫が2、3位。クライドラーのアンシャイトとファン・ドンゲン(Cees Van Dongen)が4、5位。越野はチェンジレバー折損でリタイアした。ホンダ2気筒マシンは、昨年の日本GP以来の勝利だった。

第6戦ベルギーGP(5周)は、4周目の途中で森下が不調(ヘットガスケット漏れ)になるまで、ブライアンズ、アンダーソン、森下、伊藤、アンシャイトの5名によるダンゴのレース展開だった。結果はブライアンズ、アンシャイト、アンダーソン、伊藤光夫、森下、クンツ(Rudolf Kunz、クライドラー)、ファン・ドンゲンで、1〜4位までのタイム差は、僅か3.2秒の接戦だった。レース後アンダーソンのマシンを分解チェックしてみると、ピストンリングが膠着していた。越野は、バルブプレートが割れてリタイアした。

第7戦西ドイツGPは、先に行われた125ccレースで転倒したアンダーソンが出場できず、伊藤、森下で戦うことになった。結果はブライアンズの独走優勝。続いて森下、伊藤、アンシャイトの順だった。オランダGP以降、ホンダの2気筒マシンは確かに速くなり、かつ安定性が増した。これで優勝回数は、スズキとホンダが各3勝で並び、クライドラーが1勝となった。

ホンダだけの模擬レースとなった日本GP

第8戦フィンランドGP(10周)は、ブライアンズが5周目まで大きくリードを保っていたが、トラブルによりリタイア。その後はアンダーソンとアンシャイトの激しいトップ争いとなったが、アンダーソンがアンシャイトを0.7秒差で振り切り優勝。クライドラーのタベリ、クンツが3、5位。森下は4位(キャブレターのスロットルバルブの戻り悪し)だった。これにより、メーカータイトルは3年連続スズキに決定、個人タイトルも2年連続アンダーソンに決定した。

第9戦の日本GPは、メーカー・個人タイトルとも決定していたため、スズキは50ccクラスへの参加を取り止め、125ccに総力を集中した。このため、出場車両はホンダの5台のみとなり、レースは不成立で、模擬レースを行った。



■トラブル続きの1964年・125cc

いっぽう、1964年の125cc世界選手権出場車・RT64は、“RT63よりさらに出力をアップさせよう”というコンセプトで設計・実験が行われた。前年の日本GPに初出場した水冷のRT63Aエンジンも並行して開発していた記憶はあるが、空冷のほうを優先していた。1963年の出場レースにおけるRT63は、性能的にずば抜けた優位性を持っていたから、ある程度の出力アップを行えば、この年も勝てると考えていたのである。



1964年スズキRT64(125cc・空冷2ストローク並列2気筒)




開発の結果、出力は4Ps以上アップした。大きな変更個所は、エキゾーストパイプの改良、キャブレター口径の拡大などであった。なお、キャブレターは新設計のものを採用した。日本国内のテストでは特に問題も発生せず、自信をもってヨーロッパに向かい、ホンダ4気筒と争うことになった。これに先立つ第1戦アメリカGPにはホンダは参加せず、旧型のRT63でアンダーソンが1勝を挙げた。

しかし、ヨーロッパに渡ってからのレースでは、我々の自信と期待に反し、スペインGPからイタリアGPまでの9戦中、僅か東ドイツGPとアルスターGPでの2勝(いずれもアンダーソン)しかできなかった。前年は経験しなかったトラブルが多発したためである。プラグかぶり、ピストンの焼き付きや溶損、ピストンリング関係のトラブル、クランクギアの折損、および昨年より発生件数は減ったがコンロッド大端の焼き付きなどである。



■125ccはメーカー、個人、両タイトルとも連覇ならず

ヨーロッパ初戦のスペインGP(第2戦)は、タベリとトップを争っていたアンダーソンが序盤でピットイン。スズキは出走3台全車がプラグかぶりでピットインする始末。結果は、タベリ、レッドマン(Jim Redman、ホンダ)、エイブリー(Rex Avery、EMC)、シュナイダー(Bert Schneider、スズキ)、アンダーソンの順で、ペリス(Frank Perris、スズキ)は9位。高橋国光(ホンダ)はリタイア。

第3戦のフランスGPは、アンダーソンがトップだったが、2周目ピストン焼き付きでリタイア。優勝はタベリ。続いてシュナイダー、ペリス、高橋の順。

第4戦マン島TTは、優勝したタベリと同時スタートのアンダーソンが1周目途中までタベリをリードするも、コンロッド大端焼き付きでリタイア。ペリスは1周目トップのレッドマンに0.2秒遅れの2番手と健闘したが、2周目にクランクギア折損でリタイア。シュナイダーも1周目にピストン焼き付きでリタイアと、スズキ勢は全滅。

第5戦オランダGPには、前年RT63で使用したタイプのキャブレターを使うことにした。このキャブレターの口径は、RT63のφ24に対しφ26に拡大されていた。スペインGPからマン島TTまでの3戦で使用したキャブレターは、スロットルバルブ中心から取り付けフランジ面までの距離を短くしたニュータイプのφ26だったから、口径はそのままに、形式を旧タイプに戻したわけである。

しかし、十分なセッティングが得られなかったためか、コーナーでの立ち上がり加速性が悪く、出走3台とも初めて完走したものの、シュナイダー、アンダーソン、ペリスが4、5、6位という成績に留まった。優勝はレッドマン。2位は2気筒初出場のリード(Phil Read、ヤマハ)。3位はブライアンズだった。

第6戦西ドイツGP(9周)では、アンダーソンが3周目に新ラップ記録を出し、2位以下を引き離し独走体制を築くかと思ったが、4周目に激しい降雨となり、スリップ転倒。ペリスはピストンリングトラブルでリタイア。優勝はレッドマン。続いてタベリ、シュナイダーの順となった。

東ドイツGPでトップを走るアンダーソン(179)

第7戦東ドイツGPは、アンダーソンが独走の優勝。続いてタベリ、レッドマン、ローズナー(Heinz Rosner、MZ)、コーラー(Friedl Kohlar、MZ)の順となった。ペリスは2番手を走行中コンロッド大端焼き付きによりリタイア。シュナイダーはクランクギアの折損でリタイアした。

第8戦アルスターGPは、ゴールまであと1周あまりというところまでペリスがトップだったが、かなり後方からじわじわと追い上げてきたアンダーソンがペリスをかわしトップに。これでスズキのワン・ツーフィニッシュかと思われた。しかしペリスはリードワイヤー断線?で後退。アンダーソンが東ドイツGPにつづき優勝。続いてタベリ、ブライアンズ、ペリス、シュナイダーの順でゴールした。

第9戦フィンランドGPは、トップのアンダーソンがピストン溶損により序盤でリタイア。その後タベリとペリスのトップ争いとなったが、ペリスは中盤でコンロッド大端焼き付きでリタイア。結果はタベリ、ブライアンズ、レッドマン、シュナイダー、エンダーライン(Klaus Enderlein、MZ)、クルンプホルツ(Dieter Krumpholz、MZ)の順となった。ここで125ccのタイトルは、メーカーがホンダ、個人はタベリに決定した。

第10戦イタリアGP。アンダーソンは、序盤、タベリに400メートルほど離された2番手だったが、徐々にタベリとの差を縮め、終盤にはあと50メートルにまで迫る。しかし逆転はならず、タベリが優勝。アンダーソンは2位。続いてデグナー、ブライアンズ、ペリス、レッドマンの順となった。

レース後、アンダーソンのエンジンを分解してみると、ピストンが焼き付き、ピストンリングも膠着していた。また、前年の日本GPで大火傷したデグナーが、このイタリアGPで約1年ぶりに復帰した。デグナーはスタートに手間どり、1周目の9番手から追い上げた末、3位に入った。

日本GPにデビューした水冷エンジン搭載車・RT63改A

最終戦(第11戦)の日本GP(20周)には、ヨーロッパでの雪辱を期し、アンダーソン、デグナー、ペリスは新開発の水冷エンジン搭載車(RT63をベースに水冷化したもの。機種記号は“RT63改A”と呼んだ)で出場。森下 勲と日本GPより新規加入の片山義美は空冷エンジン搭載車で出場した。アンダーソンは、中盤過ぎまで2番手以下を1kmほど離して独走。デグナーは10番手より追い上げ、14周目アンダーソンに次ぐ2番手に上がる。

15周目、独走のアンダーソンがイグニッショントラブルでピットイン。その後は、デグナーがタベリの追撃を振り切って優勝。片山義美は3位に。なお久々に顔を見せたヤマハ伊藤史郎は良いところなく9周でリタイア。かくして、何とか前年度チャンピオンの面目を保って日本GPを終了した。

1964年125cc世界選手権レースは、ホンダ7勝、スズキ4勝。タベリ5勝、アンダーソン3勝で幕を閉じた。アンダーソンにとっても、全く不運な、ツキのないシーズンだった。西ドイツGPでの転倒、日本GPで、考えもしなかったイグニッショントラブルで優勝を逸したのが悔やまれる。



1964年、125ccの問題点

(1) RT63とは異なる新しいタイプのキャブレターを採用した。セッティングが難しく、またセッティングの幅も狭く、プラグかぶりやピストンの焼き付き・溶損が多発。構造上、何か問題点があったのか?

(2) 空冷方式のまま出力アップ&回転数アップしたため、ピストンの熱負荷が大きくなりすぎた。

(3) 出力アップ&回転数アップにより、クランクシャフト強度・クランクア強度が不足となった。

(4) シリンダーは、RT63と同じく、アルミのバレルに鋳鉄のスリーブを焼きバメする方式であったが、スリーブ厚みがRT63の3mmに対しRT64は4mmとした(どういう理由で変更したかは、忘れてしまった)。これがピストンの冷却に悪影響があったのか?

このように、トラブルの原因らしきことはいくつか考えられるが、これだと確定することはできない。

こうして、誤算の1964年が終わり、翌1965年は“2気筒水冷エンジン”で戦うことになり、メーカー、個人(アンダーソン)の両タイトルを奪回した。なお、日本GP後、水冷4気筒の開発に着手した。11月にはスクエア4気筒のレイアウトを終え、12月には試作手配にこぎつけ、RS65と名づけた。しかし、その後、この“水冷4気筒”は開発に手間どり、“RS67U”としてデビューしたのは、3年近く後の1967年日本GPのことだった。





■250ccは“スクエア4”で挑戦したが…

水冷化されたMZの250。ケースリードバルブ並列2気筒

250ccクラスは、前年(1963年)最後の日本GPでデビューした“水冷スクエア4気筒”で全レースに挑戦するよう準備した。第1戦アメリカGPは“RZ63-U”で出場したが、第2戦スペインGPからは、“RZ63-U”を改良した“RZ64”で参加した。主な変更点は、繰安性の改良、重量の軽減、出力の向上などであった。なお、第7戦西ドイツGP以降は、さらに“RZ64-U”に変更された。どこが変更されたのか記憶にないから、おそらく大幅な変更ではなかったはずだ。

1964シーズン第1戦・アメリカGPは、ホンダ勢が不参加。ヤマハのリードと伊藤史郎はリタイア。スズキ勢ではシュナイダーがミッショントラブルでリタイア。ペリスは公式練習で転倒し足を骨折したため出走しなかった。優勝はMZのシェファード(Alan Shepherd)だった。

第2戦スペインGPは、ベネリのプロビーニが優勝。ホンダのレッドマン、粕谷勇が2、4位。ヤマハのリードが3位、5位にアンダーソン、8位にシュナイダーが入り、ペリスはリタイアした。

第3戦フランスGPは、リードが優勝。2位にタベリ、3位にシュナイダー(レースタイムはともかく、1961年に250ccに挑戦して以来、初の表彰台)。シュナイダーのエンジンをレース後に分解してみると、4番ピストンが焼き付き、破損していた。アンダーソンとペリスはプラグかぶりでリタイアした。

RZ64を駆りマン島TTで6位を走るアハーン

第4戦マン島TTは、レッドマンが優勝。2位にMZのシェファード。ペリスはスタート後間もなくピストン焼き付きによりリタイア。シュナイダーは1周目中間地点のサルビーではレッドマン、リードに続く3番手だったが、ヘアピンで転倒。再スタートしたものの、2周目にセカンドギアの破損とチェーン切れに見舞われ、リタイア。アンダーソンに代わって出場したアハーン(Jack Ahearn)は、2周目まで7番手だったが、3周目ピストン焼き付きによりリタイア。スズキ勢全滅となった。

第5戦オランダGPは、最初から最後までレッドマンとリードの激しい競り合いが続き、“鼻の差”でレッドマンが優勝。2位にリード。4番手を走っていたシュナイダーは、6周目にピストン焼き付きによりリタイア。6番手走行中のぺリスは、5周目にプラグかぶりでリタイア。アハーンはスタートが悪く、2周目にピストン焼き付きでリタイア…と、マン島TTに続き、ここでもスズキ勢は全滅した。

第6戦ベルギーGPは、公式練習ではリード、シュナイダー、デュフ(Mike Duff、ヤマハ)、シェファード、レッドマン、ペリスの順だった。シュナイダーの話では、フランコルシャン(Spa-Francorchamps、ベルギー)のような高速コースでなら、ミッションがもう1速あればヤマハに勝てるかもしれない。ホンダのスピードはかなり遅い…とのこと。

レースでは、本命のリードが1周目にリタイアし、デュフが独走優勝。レッドマンが2位、3位はシェファードだった。シュナイダーは1周目ピストン焼き付きでリタイア。ペリスも4周目4番手を走行中、ピストン焼き付きでリタイア。アハーンは公式練習でピストン破損によりクランクケースを壊したためスタートできなかった。

第7戦西ドイツGPは優勝リード、2位レッドマン、3位デュフ。シュナイダーは2周目ピストン焼付R。(このレースからスズキのマシンはRZ64-U型に変更となった)

第8戦東ドイツGPには、昨年に続きヘイルウッド(Mike Hailwood)がMZで出場した。公式練習タイムはヘイルウッド、シュナイダー、レッドマン、リードの順。レースは、2周目を終えてヘイルウッドがリード、レッドマンを大きく引き離し、昨年に続きMZによるヘイルウッドの優勝の再現かと思われた。しかし彼は、3周目に転倒リタイア。この結果、優勝はリード、僅差の2位にレッドマンが入った。シュナイダーはスタートが悪く、1周目は7番手、2周目は5番手、3周目は4番手と順位を上げたものの、その後プラグがかぶり気味となり、6周目にリタイアした。

第9戦アルスターGPの公式練習タイムはリード、シュナイダー、レッドマンの順。優勝はリード、2位レッドマン。シュナイダーは3位争いに加わっていたが、プラグかぶりでピットイン。再スタートして6位。なお、ここでヤマハのメーカー選手権獲得が決定した。ヤマハのメーカー選手権獲得は初めてのことであり、ホンダは1961〜1963の3年間保持していたチャンピオンの座を明け渡した。

イタリアGPにデビューしたホンダの6気筒マシン・RC165

第10戦イタリアGPで、ホンダの6気筒マシンがデビューした。公式練習では、ホンダの6気筒マシンを駆るレッドマンとヤマハの2気筒マシンを駆るリードが同タイム。レースは中盤すぎまでこの2人の息詰まる熱戦が続いたが、6気筒のスピードがやや鈍り、リードが優勝。デュフが2位に入り、レッドマンは3位に。ここでリードの個人選手権獲得が決定した。スズキは不参加だった。

第11戦(最終戦)・日本GPは、ホンダの6気筒マシンを駆るレッドマンが優勝。リードは2番手につけたが後半にリタイア。ヘイルウッドがMZで出場し、序盤は健闘したが、その後ピットインなどがあり、5位。久々に顔を見せたヤマハの伊藤史郎は1周目にリタイア。このレースを最後に天才ライダー伊藤史郎は、レース界から姿を消してしまった。スズキはイタリアGPに続き不参加。

かくして、1964年の250ccクラスは、ヤマハの初のライダー、メーカー両タイトル獲得で終了した。スズキの“水冷スクエア4気筒”による選手権初挑戦は全く無惨な結果に終わった。出走台数のべ18台、そのうち完走したのはたったの5台のみで、表彰台に登ったのはフランスGPでの3位が1回のみという惨めな結果だった。

■幻に終わったヘイルウッドのマン島TT・125&250cc出場

1964年のヘイルウッド(Mike Hailwood)は、MVと契約し350ccと500ccの選手権レースに出場しており、軽量級の125ccや250ccには出場していなかった。

ヘイルウッドといえば、MVやホンダを思い浮かべ、4ストロークマシンのライダーとしてのイメージを強く持つ人々が多いだろう。しかし、彼は軽量の2ストロークマシンでも大きな実績を上げているのである。とくに、スポット的に2ストロークマシンに乗っても非常に好成績を上げているのが注目される。

1961年にはエーリッヒ(Ehrlich)博士の設計によるEMC125を駆り、スペインGPで4位、フランスGPで4位。1962年にも再びEMC125を駆り、スペインGPで4位、オランダGPで5位、ベルギーGPで4位、西ドイツGPで3位。同年はまた、MZ250をも駆り、東ドイツGPで2位。1963年にはMZ250を駆り、東ドイツGPで優勝を果たしている。彼はデグナーにも匹敵する2ストロークマシンライダーでもあったのだ。

そのヘイルウッドを、マン島TTの125ccと250ccクラスにスズキのマシンで走らせる交渉を進めていることを知ったのは、スペインGPが終わった翌日の5月11日だった。バルセロナにて、本社からの次のような電報を受け取った。“マン島の125、250エントリーに各1名を追加した。ヘイルウッドになる予定。外人ライダーたちに了解をとってくれ。ヘイルウッドとの連絡はSGB(イギリスの販売代理店・Suzuki Great Britainのこと)を通じて行う”

5月17日のフランスGPを終え、パリ経由でベースキャンプを置いていたオランダのバドフブドー(Badhoevedorp)に戻った翌日の5月21日、本社から電話が入った。“まだヘイルウッドからOKの返事は来ていない。契約金はレースチームに一任する”とのこと。バドフブドーはアムステルダム郊外で空港にも近い小さな町で、マシンや補給部品の受領にも便利で、1963年〜67年の間、この町のHotel DE Waterwolfをヨーロッパ転戦の基地としていた。

5月22日、本社から“ヘイルウッドから未だOKの返事がないから、積極的に手を打て”というテレックスが入った。早速5月22日サンドブート(Zandvoort)のホテルにヘイルウッドを訪問。バドフブドーからは2時間程度の距離だった。サンドブートでF1レースがあり、ヘイルウッドはそこのホテルに滞在していたのだ。彼の返事は“25日にミラノでMVのアグスタ(Agusta)伯爵に会うので了解を求める。スズキに乗りたいが伯爵の同意を得るまでは返事できない”というものだった。

5月26日、本社より“ヘイルウッドがOKの場合、契約金は○万円まで”との連絡が入る。

5月28日、30日からの公式練習に備え、アムステルダムから貨物のチャーター機でマン島入り。5月29日、マン島入りしたヘイルウッドからの回答は、“アグスタ伯爵に対し、数回にわたり了解を求めたが、同意を得られなかった。明日もう一度電話して了解を求めてみる”との内容。

5月31日、ヘイルウッドより最終の回答があった。“どうしてもアグスタ伯爵の了解が得られないから、マン島TTでスズキに乗ることは諦める”

以上のような経緯で、ヘイルウッドのマン島TT・125cc、250ccクラスへの出場は幻と消えた。ヘイルウッドがスズキのマシンでどのような走りを見せるのか、また繰安性が良くないとされたスクエア4のRZ64をどのように乗りこなすか、一度は乗せてみたかったライダーだったのに、実に残念だった。

1964年マン島TTスケジュール

5月30日〜6月6日
 公式練習
6月8日
 サイドカー、250cc決勝
6月10日
 125cc、350cc決勝
6月12日
 50cc、500cc決勝

マン島TTのスケジュールは左記のようであったが、6月10日の350ccレースに、ヘイルウッドは扁桃腺による発熱のため出場できなかった。その後12日の500ccには出場し優勝したが、たとえスズキと契約ができていたとしても、125ccの決勝には出場できなかっただろうし、250ccにはどうだっただろうか…。

125cc、250ccクラスのエントリーは下記のとおり。125の“16”、250の“31”がヘイルウッド用に申し込んだ“幻のゼッケン”である。



■待望の竜洋テストコースの完成

1964年12月9日に、待望の“竜洋テストコース”が完成した。1962年秋の鈴鹿サーキットの竣工以来、ずいぶん“鈴鹿通い”をして、テストをしたが、今後これから解放されることになった。浜松〜鈴鹿間は約150kmで、もちろん高速道路のない時代であり、部品運搬のため、徹夜で鈴鹿〜浜松本社間を往復をした苦い思い出もあったが…。