|
■1960年代・鈴鹿のビッグレース
1962年(昭和37年)9月20日、日本初の国際レーシングコース “鈴鹿サーキット” が竣工し、1960年代には次のような二輪車レースのビッグイベントが開催された。優勝者・マシンは、下表の如くである。
■50ccでスズキは勝てない
1962、1963、1964の3年連続でメーカータイトルを獲得したスズキは、鈴鹿では一度も優勝していない。
1962年のレースでは、デグナーが独走していたが、レース半ばで転倒。続いて市野三千雄が2位以下を大きくリードしていたが、最終ラップにこれまた転倒してしまい、ロブ(ホンダ)が優勝した。
1963年のレースは、タベリのホンダだけが異常に速く、勝てなかった。
1964年は、メーカータイトルはスズキ、個人タイトルはアンダーソン(スズキ)に決定しており、スズキは参加せず、レースは不成立となった。ホンダ車だけの模擬レースが行われ、ブライアンズ(Bryans)が優勝した。
1965年は、ホンダとメーカー選手権をかけて、またブライアンズとアンダーソンの個人タイトルを賭けてのレースとなった。このシーズン2勝を挙げていたデグナーは、前戦イタリアGPの125ccレースで転倒し、足を骨折のため出場できなかった。スズキがタイトルを獲るには、1、2位を独占する必要があり、アンダーソンが個人タイトルを獲るには、アンダーソン自身が優勝し、しかもブライアンズが4位以下にならなければならない。いずれもホンダに有利な状況だった。
レースはアンダーソンがエンジン不調で1周目は5位、その後、ジリジリと追い上げ、11周目にはブライアンズ、タベリのトップグループに追いつき、3人のダンゴレースとなり、もしかすると鈴鹿50ccでの初優勝かとの期待をもったが、最終ラップ転倒。やはり、鈴鹿では勝てない。そして、メーカーはホンダ、個人はブライアンズにタイトルが決定した。
■125ccではホンダが勝てない
1962年は雨中のレースで、アイルランドの雨男・ロブ(T. Robb、ホンダ)が優勝し、2位はペリス(Perris、スズキ)であったが、1963、1964、1965の3年間はスズキが連勝し、ホンダは勝っていない。
1963年は、ホンダのエース、タベリが1周目にマシントラブルでリタイア。アンダーソン(スズキ)は、序盤トップグループにいたが、エンジンやや不調で遅れる。首位争いはペリスとレッドマン(Jim Redman、ホンダ)の2人となり、ぺリスが競り勝った。
1964年は、ブライアンズが序盤で転倒。アンダーソンが中盤過ぎまで独走態勢だったが、エンジンが不調となり、遅れ始めた。デグナーは1周目10位であったがジワジワと追い上げ、遅れだしたアンダーソンに替わってトップに躍り出た。タベリが懸命にデグナーを追ったが、及ばなかった。前年の鈴鹿250ccで大火傷を負ったデグナーが、見事にカムバックしたレースだった。
1965年は、2周目からタベリがトップに立ち、2位アンダーソンとの差を徐々に広げた。しかし、アンダーソンは、レース半ばの10周目頃からタベリとの差を詰め始め、終盤の15周目にはトップに立ち、その後は徐々にタベリとの差を広げて優勝した。
■ヤマハは一度も勝てない
ヤマハは、125ccでも250ccでも、一度も鈴鹿で優勝していない。
1962年の250ccレースは、チャンピオン、レッドマンの貫禄のレース。伊藤史朗(ヤマハ)とロブ(ホンダ)の2位争いは見ごたえがあったが、伊藤は3位となる。
1963年の250ccレースは、最終ラップまで、ホンダのレッドマン、ヤマハの伊藤史朗とリード、計3台のマシンによる、凄まじく白熱したレースであった。リードは最終ラップに片肺となって遅れ、伊藤は0.1秒差でレッドマンに優勝をさらわれた。
1964年の250ccレースは、1周目からレッドマンが独走。この年のメーカータイトルはヤマハ、個人タイトルはリードが既に決めていたが、鈴鹿では勝てなかった。
1965年の250ccレースは、前日の350ccレース中に蜂に顔を刺されたレッドマンが欠場。ヘイルウッド(Mike Hailwood、ホンダ)の独走のレースに終わった。ヤマハのリードは1周目に転倒し、望みは消えた。この年もメーカータイトルはヤマハ、個人タイトルはリードが既に決めていたが、鈴鹿ではやはり勝てなかった。
1960年代の日本GPは、この後1966年の第4回日本GP、1967年の第5回日本GPともに、富士スピードウェイで行われた。
|
|