移動中には珍しく、同じホテルに2泊したわれわれは
翌・7月1日の午前中も商店街をうろうろし
昼前になってようやくバルセロナに向けて出発した。
来たときと同じ道を引き返して
フランスに入る直前でガソリンを入れる。
“Carburant 98”と書かれたポンプで満タンにすると
47リットル入った。
値段は86.60ペセタ/リットル
または3.83フラン/リットルだ。
フランス国内では5.19〜5.42フラン/リットルだから
アンドラのほうが断然安い!
フランスとの国境を越え、30kmほどのころにある
Bourg-Madameという町からスペインに入る。
ここでの国境越えは
出国や入国などというたいそうなものではなく
勝手口から出て
裏庭伝いによその家の勝手口に入るような雰囲気だ。
ブールマダームからバルセロナまでは、真南に約100kmの道のり。
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ブールマダーム付近の
ガソリンスタンドにいた犬。
よく見るとセントバーナードだった。
セントバーナードといえば
グレートピレネーズに近い種類だから
ピレネー山中は
大型犬にとってすごしやすい
気候なのかもしれない。
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山を下るにつれて土壌が乾燥するのか
次第に緑は薄くなり、薄い茶色の地肌むき出しの荒地が増える。
ところどころにある集落も
フランス側より古く、貧しい感じがする。
南下するにつれて、通過する集落が徐々に大きくなり
新興住宅地のような町が出現したところで
新しくできたアウトピスタに乗った。
われわれの目的地・カタルーニャサーキットは
バルセロナからフランス側に20分程度走ったところにあるから
市内には入らずに[A7↑Girona Francia]方面に向かう。
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アンドラからバルセロナへは
いったんフランスに入り
Bourg Madameでスペインに入国し
[C1411]という一般道を
真南に向かうのが最も速い。
このルートだと
ピレネーの支脈の一つ
シエラ・デル・カーディを
新しくできたトンネル(有料)で
越えることができ
さらに、バルセロナの手前
約50kmの区間は
アウトピスタを利用できる。
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環状線に入る手前に料金所がある。
遮断機の手前で停車し
機械に日本の住友VISAカードを差し込むと
ほんの1秒ほどでカードは戻ってきて
ほぼ同時に遮断機が上がる。
スペインやフランスで
高速道路通行料の支払いにカードを使うと
いつも、その速さに感心する。
そのつど“大丈夫かな?”と思うが
帰国してしばらくすると、ちゃんと請求されてくる。
サーキットへの出口は[A7]のNo.13。
カタルーニャサーキットは
海とは逆に、ほんの少し山側に走ったところにある。
入り口でチェックを済ませたわれわれは
オランダGP以来1週間ぶりの
チーム関係者や同業者と再会を喜びあい
暇そうなチームを見つけては
お茶やお菓子をよばれながらおしゃべりに興じる。
カメラマンにとってもライターにとっても、この時間こそ
ライダーの生き生きとした表情を捉えたり
ナマの声をゆっくりと聞ける貴重なチャンスなのだ。
パドックを一回りしたわれわれは
そろそろ陽が傾く午後8時ごろ
ようやくサーキットを後にしてホテルに向かった。
予約していたホテルは
サーキットとバルセロナ市街のちょうど中間地点の
郊外の新興住宅地のど真ん中にある。
まわりにレストランなどがまったくないので
夕食はホテルのレストランで食べた。
フランス系のチェーンホテルのためか
レストランのメニューは
いわゆるフランス料理のフルコースディナーが中心だ。
けっこう美味しいし、量も十分なのだが
イマイチ楽しさに欠ける。
ボクとWさんが食べ終わったところに
同じホテルに泊まるいろんなチームの関係者が帰ってきた。
そのうちの2人とWさんとボクの4人で
ホテルの向かいのバーで
“ちょっと、軽くイキましょう”ってことになった。
日本でいうマンションの1階にあるバーで
セルベッツァ・ナントカを飲みながら四方山話をしていると
徐々に表が騒がしくなってきた。
GPライダーやチーム関係者が向かいのホテルに泊まっているのを
地元の少年たちが嗅ぎつけて
続々とホテルの前に集結しつつあったのだ。
少年たちは「アラーダ?」とか
「イトウ?」とか「オカダ?」とか言いながら
バーから出たわれわれを取り囲む。
いっしょに飲んでいた人がボクを指差して
「コイツがイトウだ」なんて冗談を言う。
ボクも負けずに相手を指して「アラダ!」とやり返すが
どう見ても40代半ばのその人が原田のわけがないことは
地元の少年にもわかったようだ。
われわれは
どうにか彼らの包囲網をくぐり抜け、部屋に戻った。
しばらくすると、少年たちの興奮がピークに達した。
外を見ると、上の階の窓から
本物の原田が通りに向かって手を振っていた。
5月のスペインGPでぶっちぎりの優勝を飾った原田は
ここカタルーニャでもスーパースターだったのだ。
バルセロナ郊外の
普段なら日本人など行かないような住宅地の真ん中で
地元の少年たちが原田を見つけて歓声を上げている…。
夜中になっても静まらない表の喧騒が
ボクにはとてもうれしかった。
年に何度か“ああ、この世界に浸ってて良かった!”
…と思う瞬間がある。
93年は、原田選手のおかげで
例年になく多くの“良い目”に会えた。
チーム関係者であれプレス関係者であれ
「GPはドラッグみたいなもので
なかなか足を洗えない」ものだそうだが
そろそろボクも、本物の中毒患者になってきたようだ。
少年たちの歓声を聞きながらベッドに入ると
次号の原稿の書き出しが頭に浮かんだ。
「アラーダ! アラーダ!」
決勝前夜、サーキットとバルセロナ市街の
中ほどにある静かな住宅地の中のホテルは、
ときならぬ歓声に包まれていた。テルコール
バレージチームのバンを見つけた地元の少年
たちがホテルを取り巻き、口々に4階の窓に
向かって叫んでいたからだ。
(ライディングスポーツ誌1993年9月号より)
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