ストーブリーグの時期になると、ボクは一人のラ
イダーの動向が気になる。500クラスのランキン
グ3位という成績を残しながら、94年限りでGPか
ら姿を消してしまったジョン・コシンスキー。彼ほ
ど素晴らしいライディングテクニックの持ち主は他
にいないと思うから、いつも、何とかしてGPに戻
ってきてほしいと願っているのだ。
ジョンと初めて会ったのは、87年のSUGOのパ
ドックだ。ボクがYZR250のメカをしていたと
き、スポット参戦の彼を同じマシンに乗せたのだ。
ジョンは繊細なヤツだった。フロントの巻き込みが
気になるというので、フォークオフセットを3mm短
くしてトレールを伸ばしてみようということになっ
たとき、「ホイールベースが短くなるのはイヤだ」
と、ダダをこねて担当メカを困らせた。
となりで奥村のマシンを整備しながら、ボクは、
ジョンと担当メカのやりとりを聞いていたが、しば
らくして「ホイールベースは2mmちょっとしか短く
ならないぞ。それがイヤだったら、もう、オマエに
は、チェーンを張ったりファイナルを変えたりして
やらないからな!」と、怒鳴った。
ジョンはびっくりした。日本人に怒られたのは、
おそらくこれが初めてだった。それまでの人を食っ
たような表情は消え、納得してフォークオフセット
を短くした。以来、ボクたちは仲良くなった。パド
ックで居所のない彼は、ボクのところによく遊びに
来た。そして、YZRのパーツを見ては、「これは
オレのTZに使えるだろうか?」と聞いた。
全日本ではワークス体制でYZRに乗せてもらっ
ていたが、AMAでは貧乏プライベーターの一員と
してTZに乗っていた彼は、使い古しのチェーンや
ロックワッシャやブレーキパッドなどに興味を示し
た。ボクが内緒でオイルやらチェーンやらアルミの
カウリングビスやらを渡すと、うれしそうにバッグ
にしのばせて持って帰った。
その後2年間のスポット参戦を経て、90年にマー
ルボロロバーツチームから250に出場し、初のフ
ルエントリーながらGPのタイトルを獲得。そして
91年、500にステップアップした彼は、最終戦で
優勝してランキング4位に入り、翌年も最終戦で優
勝し、ランキング3位に入ったのである。
が、このあたりから、ナンバー2では我慢できな
い性格が災いしてチームクルーと何度もケンカをし
たり、子供扱いされるのを嫌ってライダー仲間やプ
レスに対して攻撃的になるなど多くの敵を作った。
英国人ライターにインタビューを受ける彼を観察し
ていると、途中で露骨にイヤな顔をしたり、最後に
は「眠いから早く帰れ!」と追い出す始末。
決定的だったのは93年。ケニーと訣別し、ラッキ
ーストライクスズキチームと契約して250を走る
ことになったのはいいが、開発が進まないマシンに
業を煮やした彼は、オランダGPのクールダウンラ
ップでマシンを捨て、3位の表彰台にも姿を見せな
かった。スズキとの契約は途中で解消。USGPで
カジバに乗るまでの間、浪人生活を送った。
この浪人生活と、その間の気持ちの支えとなった
スペイン人の彼女の存在、そしてカジバのチーム監
督だったアゴスチーニの態度が彼を変えた。91、92
の2年間、どちらも、レイニーではなく自分中心に
チームが動いた最終戦で優勝したことからわかるよ
うに、自分を一人前のライダーとして、そして大人
として認めてくれる環境では、ジョンは、その人並
み外れた才能を発揮する。
ようやくその環境を得た94年のカジバでは、マシ
ンの性能差をものともせず、カダローラにわずか2
ポイント差のランキング3位を獲得している。とこ
ろが、せっかくの環境は、カジバのGPからの撤退
で失われてしまった。おとなしくなったとはいえ、
まだまだわがままで扱いにくいヤツかもしれないが
それを理由に彼のチャンスを奪うのは、レース界に
とって大きな損失といわねばなるまい。
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