バイカーズステーション 2000年6月号

オートバイのメカニズムにも工具にも興味のなかった私が
偉そうに“工具の話”などを書くようになったのは
壊れたら自分で直すという家庭教育と自分の乗ったバイク
バイクに乗り始めた頃に出会った良き指導者
そして、ほんのちょっとした好奇心のおかげである

【興味はなかったが、そのうちおもしろくなり、やがて泥沼へ】


壊れたら自分で直すという教え
 この連載も今回で47回目。何度か休載したから、連載期間は4年を過ぎ、もうすでに5
年目に入っている。“工具の話”の前には“マスターツール”という連載があって、そち
らは76回のロングランだったから、両方を合わせると10年以上も本誌に工具関係の話を書
き続けてきたことになる。
 しかしその間、一度も自分自身のことを書いたことはなかった。意識して避けていたわ
けではない。時々、何かの工具の話のついでに、その工具を初めて見たときのことや買っ
たときのことを書いてはいる。だが、そういった断片的なできごとではなく、そもそもな
ぜ私が工具のことを書くようになったのか、いや、もっとさかのぼって、なぜ工具に興味
を持ったのか。そのあたりのことを、2巡目の連載が終わりに近づいてきたこのあたりで
書かせてもらうことにする。
 私にとって工具は、もちろん、最初はオートバイを整備するための道具だった。だから、
先に興味を持ったのは、工具よりもオートバイのメカニズムのほうだった。では、なぜオ
ートバイのメカニズムに興味を持ったのか。それは自分にもよくわからない。ただ、必要
に迫られてバラしたり組んだりをしているうちに、おもしろくなってきたというのが正直
なところだ。
 とはいえ、何の興味もなければ、修理が必要なときはショップに頼んでいただろう。修
理代をケチったとか、修理に要する時間が待てなかったなどというのも考えてみたが、シ
ョップに頼んだほうが、結局は安く・早く直るということくらい、当時の私にもわかって
いたはずだから、これは理由にならないと思う。というわけで、オートバイのメカニズム
に興味を持った理由ははっきりしない。
 では、オートバイ以外のメカニズムに興味を持っていたかというと、これもかなり怪し
い。よくいる自転車小僧ではなかったし、プラモデルは生涯4つしか買ったことがなく、
どれも完成させることができなかった。小学生時代、アマチュア無線が友人の間で流行し
たことがあったが、それにも興味はなかった。小学生〜高校生時代にかけて、鉄道車両、
とくに蒸気機関車には機械としての魅力を感じたが、メカニズムに対する興味といった科
学的なものではなく、もっと人間くさい、感覚的なものだった。
 しかし、興味のあるなしは別として、壊れたら直すとか、使いやすいように手を加える
といったことは、うちではけっこう日常的に行われていた。母親は、電化製品の電源プラ
グの交換や、電球ソケットへの配線の取り付け、壁にある電灯スイッチの修理、ドアの蝶
番の修理など苦もなくやっていたし、父親は、直せるかどうかはともかく、壊れたとか調
子が悪いからといっては、冷蔵庫、洗濯機、TV、電気あんか、掃除機などをバラしてい
た。こうしたシーンを通じて“壊れたら自分で直す”ということを、少年の私は刷り込ま
れていったのだろう。

GT185での貴重な体験
 最初に所有したオートバイは、スズキのGT185だった。とにかく、自分の好きなとき
に好きなところに行けるのが楽しかった。移動手段の私有。これに優る喜びはなかった。
中学時代の友人から走行1万kmちょうどで譲り受けたそれはしかし、その後の酷使と保管
状況の悪さから、しょっちゅうトラブルを起こした。そして、そのつど、いろんなことを
私に教えてくれた。
 高速道路を走行中にオイル切れによる焼きつきを起こしたときに、2ストロークエンジ
ンはガソリンだけでなくオイルも消費するんだということを学習した。2ストと4ストの
違いがわかったのは、もっとずっと後になってからだが、とにかく、それ以後、エンジン
オイルの残量には気をつけるようになった。“最近、曲がるときによくステップが接地す
るな”と思いながらしばらく走り続け、ある日、たまたま、停まっている自分のバイクを
横から見て“形が変だぞ”と気づいたら、実は、ダウンチューブが、メインチューブとの
溶接部分のすぐ下で(今思い出すと、たぶん溶接二番から)折れていたということもあっ
た。エンジンの重さ、自分の体重、加減速の力などがかかって、エンジン位置がかなり下
に下がっていたのだ。それでも気づかずにしばらく走り続けていたのである。シロウトと
は恐ろしいものだ。
 だが、さらに恐ろしいのは、それを自分で直そうとしたことだ。うまい具合に、メイン
チューブとダウンチューブ(セミダブルクレードルだからダウンチューブは1本だけ)の
接合部分にはU字型のパッチが当たっていて、ダウンチューブはその内側で折れていた。
そこで私は、エンジン下部にジャッキを当て、ダウンチューブの先端がU字型のパッチの
中に入るようにしながらジャッキアップし、次にパッチの側面からドリルで穴を開けた。
家庭用の電動ドリルだったから、パッチはともかく、ダウンチューブを貫通するのに苦労
したが、何日もかかって、なんとか穴は開いた。
 よく見ると、左右で穴の位置は違っていたし、ダウンチューブも元の位置よりやや下が
っていた(切断面に透き間があった)が、そんなのはほとんど気にならなかった。それよ
り、ボルト(今思うと8mm)を通し、ナットを締めつけて、自分で修理をやり終え、前と
同じように走り回れるようになったのがうれしかった。ああ本当にシロウトは恐ろしい。
 そんな思い出深いGT185ではあったが、遠出をするには4スト2気筒(まだ構造は理
解していなかったが)のほうが良いように思えてきた。スコッチ・ウイスキーを飲み、ダ
ンヒルやロスマンズを吸い、トワイニングのプリンスオブウェールズという紅茶を愛飲し
ていた英国かぶれの私は、モーターサイクリスト誌に書いてあった“英国車的”という言
葉に引きつけられ、TX650を次期マシンに決めた。そして限定解除審査を受け、3年落
ちの1974年式TX650(車台番号447-006427)を中古で買った。

その後の人生を決めたTX650時代
 オドメーターでは6000kmちょっとしか走っていないはずのTX650はしかし、神戸の中
古車専門店から京都に帰る途中、すでにトラブルを発生した。片肺症状とバッテリー上が
りである。買った当日であり、とにかく早く乗りたかった私は、このときは自分で直そう
とせず、京都のヤマハの営業所に持ち込んだ。修理が終わって引き取りに行くと、サービ
スマンが交換した古いパーツを渡してくれた。詰まったパイロットジェットとすり減った
ダイナモブラシだった。今思うと、あのTX650は、実際にはオドメーターの数倍は走っ
ていたに違いない。
 その後、このTX650と私は、年間1万kmを超えるペースで走り続けた。カスノモータ
ーサイクルに出入りするようになったのはこの頃だ。そして同店でメカニックをしていた
菱田氏と知り合ったのと、2年間に2回も長期免停を食らったのが、その後の私の人生を
決めた。あまり程度が良くないTX650で、とにかくガンガン走り回ったから、細かなト
ラブルは日常茶飯事。わからないことはすべて菱田氏に教えてもらいながら、ほとんどの
整備は自分でした。今、偉そうに書いているネジの話や工具の使い方などは、ほとんどこ
の頃に菱田氏に教えてもらったことがらである。
 だが、日常の整備ができるのとオートバイの構造がわかるのは別。そんな私が、少なく
ともTX650に関して、その全貌を把握したのは長期免停の期間中だった。フルにお勤め
して180日。講習を受けても100日の免停期間中、とにかくバイクを触っていないと気が済
まなかった私は、何もわからないままTX650をバラしはじめた。フューエルタンク、シ
ート、前後のホイール、マフラー、灯火類などは車載工具だけで取り外すことができた。
が、車載工具だけではエンジンマウントを外すことはできなかった。
 そこで初めて、私は自分で工具を買った。工具専門店などという業種があるのさえ知ら
なかったから、近所のスーパーの荒物売り場で、KTCの17mmのT型ボックスレンチを買
ったのである。このときTレンを選んだのは、もちろん、菱田氏がTレンを愛用している
のを見ていたからだ。車載工具に入っていたスパナしか持っていなかった私は、その使い
やすさに驚いた。
 こうして何とかエンジンを降ろした私は、それを部屋に運び込んだ。そして毎日、少し
づつ、必要な工具を買い足しながらバラしていった。2番目に買ったのは、13mmのTレン
だった。シリンダーヘッドをシリンダーに留めているボルトのうち、ネジ径8mm、二面幅
13mmの2本だけが、どうしてもスパナでは緩められない位置にあったからだ。3番目の工
具は、たぶん10mmのTレンだったと思う。そして、これら3本のTレンと車載工具と、元
からあったドライバー類だけで、どうにかクランクケースの分割まではできた。
 わずか3本のT型ボックスレンチではあったが、これほどありがたく感じた工具は他に
ない。

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