バイカーズステーション 2000年7月号

メカニズムを理解していなくてもバラし組みはできる
だが、形が元どおりになっても、ちゃんと動くとは限らない
私はTX650のボアアップでそれを痛感した
知れば知るほど興味が高まり、理解が深まるという
好循環は、レースの世界に足を踏み入れてから始まった

【“好きこそものの上手なれ”を地で行ったメカニック見習い時代】


パーツリストを頼りに組み立てる
 47回目の前回から、工具に関する2巡目の連載を締めくくるべく、工具にまつわる私自
身の思い出を書いている。前回は主に、オートバイにも、そのメカニズムにも、もちろん
工具にも興味のなかった私が、どのようにしてそれらに興味を持ったかという内容だった。
長期免停中、愛車をバラすべく、初めて自分の工具を買ったというところまでである。
 さて、その近所のスーパーの荒物売り場で買った17、13、10mmの3本のTレンと、元か
ら持っていた車載工具を合わせた10点ほどの工具だけで、TX650のエンジンは完全にバ
ラバラになった。TX650に限らず、当時のオートバイは、今と比べると圧倒的に少ない
点数の工具でバラしたり組んだりすることができた。
 免停期間も半分を過ぎると、バラしたマシーンの組み立てにかからなければならない。
期間中、6畳の間を一部屋占領していたから、パーツの保管には問題がなかった。紛失や
混同を恐れ、細かなパーツやネジ類は、セクションごとに整理し、菓子箱に入れてあった。
シロウトならではの慎重さである。
 だが、いくらパーツやネジ類が整理されていたとしても、それだけではバラバラになっ
たマシーンを組み立てることはできない。エンジン全体のしくみや個々のパーツの働きな
ど、機械を組み立てるうえで必要な知識がまるでなかったからだ。カスノモーターサイク
ルに聞きに行こうにも、オートバイに乗れない免停の身には容易ではない。それでも何度
か、電車とバスを乗り継いで同店に行った私は、ある日、TX650のパーツリストを借り
てきた。
 初めてオートバイのパーツリストを見て、私は狂喜した。“これさえあれば、何も知ら
なくても組み立てができる!”と、そのときは本気でそう思った。無知厚顔とはこのこと
だ。が、まあ、単純な構造のマシーンだったから、本当に、パーツリストだけで、ほとん
どの組み立てはできてしまった。カムシャフトの位相、点火時期、タペットクリアランス
などの調整は、雑誌(モーターサイクリストかモトライダー)に出ていた別機種の記事を
参考にした。
 このようにして、何とか免停終了前に組み立てを終え、免許が戻ってきたと同時に、再
び乗れるようになったのだが、どういうわけか、自分一人で組み立てたオートバイが動い
たことに対して、特別な感慨はなかった。パーツリストに従って元どおりに組み立てたの
だから、動いて当たり前……といった、これまた今思い出すと恥ずかしくなるような、間
違った自信を当時の私は身につけてしまったようだ。それはさておき、とにかく、免停が
終わり、再び走り回れるようになったのがうれしかった。
 オートバイをいじることよりも、ただとにかく走り回るのが好きだった私を次のステッ
プに導いたのは、1本のタイヤと、当時のカスノモーターサイクルの常連客たちである。

操縦性を激変させたTT100
 1年に1万kmを超えるペースで走ってたから、タイヤの消耗は激しかったようだ。タイ
ヤなんて、スリップサインが出るまでは交換しなくていい……と、当たり前のように考え
ていた(いや、つまり、タイヤのことなど何も考えていなかったのだ)私が、買ったとき
についていたダンロップのK87ではなく、同じダンロップのTT100(魔法のタイヤなど
と呼ばれていた)に変えたのは、常連客の多くが使っていたし、値段も安かったというの
がその理由だ。
“魔法のタイヤ”というのは本当だった。TT100を履いた途端、TX650は、まるで別の
乗り物かと思うほど大きく変身した。峠道を攻めたことはなかったし、ツーリングの途中
で通るワインディングロードは、気分は良かったが、どちらかというと苦手だったのに、
TT100を履いてからは、暇さえあれば山道に走りに行くようになった。そしてこのあと
は、免停期間中の暇つぶしではなく、転倒して壊れた部分の修理のために、自分のマシー
ンをいじるようになっていった。
 同じ頃、改造にも興味がわいてきた。モトコの前身である本橋ヤマハ製シングルシート、
英国ダンストールのマフラー、スタジアムのコンチネンタルミラー、ヤマハメイトの角型
ウィンカー、シビエのヘッドライトなど、当時TX系で流行していたパーツを、ただ取り
付けるだけの改造がほとんどだったが、ちょうどその頃、750にボアアップするチャンス
がやってきた。
 ボアアップといっても、ピストンとスリーブを買ってきてするのではなかった。たまた
まカスノモーターサイクルが新車の下取りにしたTX650が、実は750にボアアップしたマ
シーンで、それを部品取り用に買ったのである。自分のマシーンのほうが程度が良かった
から、部品取り車のピストンとシリンダーを自分のマシーンに移植することにした。
 この頃になると、もう、パーツリストなしでバラし組みができるほど、私はTX650の
構造に精通していた。理解していたのは構造(つまり、どこにどんな部品が付いているか)
だけであり、諸元(サービスデータ)や作動原理は何も知らなかったのだが、ともかく、
ボアアップは無事に完成した。
 ところが、750になったTX650は、私の予想を裏切り、少しも快適ではなかった。確か
に、アイドリングよりもやや上の回転域ではトルクが太ったような気がしたが、全域で振
動が大きくなり、何より、650の、あの心地よい加速感がまったく失われてしまったのだ。
 そこで私は、あっさりと750に見切りをつけ、元のピストンとシリンダーを組み込んで
650に戻してしまった。カムを変えたり、圧縮比、点火時期、キャブセッティングなどを
調整したりすれば良かったのに……と、今になって残念に思っている。だが、当時の私に
は、それをできる技術はもちろん、それに気がつくほどの知識もなかった。ただ、とにか
く、バラしたり組んだりする作業はずいぶんうまくなった。

古屋喜一郎とともにレースの世界へ
 当時のカスノモーターサイクルは、フライング・ドルフィンというレーシングチームを
持ち、社長の糟野氏自らTZ350や750で全日本選手権ロードレースに参戦していた。そこ
に出入りし、TT100のおかげでスポーツライディングに目覚め、そこそこ器用にオート
バイのバラし組みができるようになった私が、レースに興味を持たないはずがなかった。
そしてちょうど同じ頃、私の中学時代の同級生だった古屋喜一郎がレースを始め、同店に
出入りするようになったのである。
 古屋の最初のマシーンは、79年型TZ250だった。81年からレーサー専用のクランクケ
ースとなる前の、旧RD系のクランクケースを使った最終モデルだ。だから、というわけ
ではないが、TZ250くらいなら自分にも整備できそうな気がした。ホイールのハブ、ブ
レーキディスク、キャリパー、フロントフォークなどに、TX650と共通、またはよく似
たパーツが使われていたのも、身近に感じた原因だと思う。
 古屋や、同時期にフライングドルフィンに所属していた長谷川嘉久、森長達也、福田照
男、世古口享らのマシーンと彼らの整備風景を見ていると、自分にもできそう……を通り
越して、オレのほうがうまい……という気がしてきた。依然としてメカニズムに対する知
識は皆無に近かったが、それは、TZ250を買ってレースを始めたばかりの彼らにしても
同じだった。
 この頃から、私の古屋宅通いが始まった。古屋家にはマシーンの整備スペースがあり、
メカニズムや工具に詳しいお父さんもいた。そして、家の近くのオートバイショップで働
いていた古屋自身、私よりははるかにメカニズムや工具に詳しかった。私の古屋宅通いは、
彼が本格的にレースを始めた80年から、国際A級に昇格した82年まで続いた。
 この3シーズン、私は、彼が出場した全レースに、メカニックとしてついていった。最
初の頃は、ただのお手伝いにすぎなかったが、彼が81年型TZ250に乗り換えた頃からは、
自他ともにメカニックと呼ばれて恥ずかしくない程度の整備はできるようになっていた。
 オートバイ(に限らず、何でも同じだが)のメカニズムは、知れば知るほど興味が高ま
り、興味が高まれば理解も深まる。菱田氏に基本を教わった後、古屋という良き相棒を得
たおかげで、この3年間に私が身につけた知識ははかり知れない。
 当時のワークスマシーンが装着していたウィング(スズキRGB)やフローティングタ
イプのリアブレーキについて、あるいはTZ250(当時はまだピストンバルブ)のピスト
ンの変形、クランクの耐久性、ステアリングヘッドの締め加減などについて、ああでもな
い、こうでもない……と話しながら、古屋とともに夜を明かしたことも数え切れずある。
 このようにして、古屋とともにレースの世界に入った私は、83年になって初めて、彼の
薦めもあり、別のライダーのメカニックをすることになった。

< 前号へ  目次へ  次号へ >