バイカーズステーション 2000年11月号

どうしてこんなにわかるんだろう……と思うほど
メカニックを引退した翌年の私には
コースサイドで見るマシーン姿勢や挙動がよくわかった。
乗ったりいじったりするだけでなく、見たり聞いたりすることも
オートバイを理解するための効果的な方法である

【メカニック諸君、もっと自分の担当マシーンの走りを見よう!】


引退してわかった“見ること”の重要性
 前回までで、私の現役レーシングメカニックとしての約10年間を振り返ってみた。いつ
もの“工具の話”の読者のかたがたには物足りない内容だったかもしれないが、レーシン
グマシーンの整備に興味をお持ちのかたには参考になる部分があったと思う。
 で、前回は、連載が終了したかのような、そうでないような終わりかただったので、も
う1回、87シーズン限りで現役レーシングメカニックを引退し、取材する側に回った後の
ことを書いて、今回で本当にこの連載を締めくくることにしたい。
 取材者となった私の最初のレースは、88年の全日本ロードレース開幕戦だった。とにか
く、約10年間、ピット以外のところからレーシングマシーンの走りを見る機会などほとん
どなかったから、ピット以外のところで見るのはとても新鮮だった。とくに250ccクラス
となると、コースサイドで実際に走っているシーンを見たことなど皆無に近かったから、
チャンスを見つけてはコースサイドで走りを観察した。
 この体験は感動ものだった。鈴鹿のS字やSUGOのインフィールドで見るレーシングマシ
ーンの走りは、まるでスローモーションビデオを見ているかのように、はっきり、鮮やか
に目に映った。コーナー突っ込みのブレーキングでフロントフォークが縮むようす。そこ
から旋回に移り、スロットルを開けた後、うまく曲がっていくマシーンはリアが沈むだけ
なのに対し、そうでないマシーンはフロントが浮き上がって不安定になるようす。切り返
しのとき、1アクションで右フルバンク近くから左フルバンク近くへスムーズかつ瞬時に
姿勢を変えるマシーンと、直立付近で引っかかるため、引き起こしと倒し込みの2アクシ
ョンで切り返していくようす。などなど、ライダーにより、マシーンにより、非常に大き
な差があるのに驚いた。
 それとともに、現役時代に奥村から聞いた、マシーンの症状に関するさまざまの言葉を
思い出しては“なるほど、あれはこういうことだったに違いない……”と納得する。その
繰り返しだった。ライダーは、当たり前のことだが、乗っている限り自分のマシーンの姿
勢や動きを外から見ることはできない。メカニックもまたしかり。コースサイドに出て自
分の担当マシーンの走りを見るチャンスはほとんどない。これではダメ、とはいわないが、
非常に非効率的だと思った。
 ライダーが伝える症状というのは、ライダー自身に伝わった感覚であり、外から見たマ
シーンの姿勢や動きではない。だから、マシーンのセッティングを詰める場合は、ライダ
ーから聞いた症状を元にメカニックが想像力を働かせなければならない。マシーンの姿勢
や動きがこうで、そのときのライダーのアクションがこうだから、アクションに対するマ
シーンの反応を良くするならこう、悪くするならこう……と、筋道を立てて考えなければ
ならないのだ。
 ところが、コースサイドで実際の走りを見た経験が乏しいと、マシーンの姿勢や動きを
うまく想像できない。コースのどの部分で、ライダーがどんなアクションを与えたときに、
マシーンはどのように反応するのか。これがわかっていればライダーの話を理解しやすい。
ライダーが同じ症状を口にしていても、コースのここではこの原因、あそこではあの原因
……というふうに違いがわかるから、セッティングの進み具合に格段の差が生じてくる。
 取材をしながら、ときには取材そっちのけでコースサイドに立って観察した結果を、私
は何度か、知り合いのライダーやメカニックに教えたことがあった。さすがにワークス相
手のときは、見たままを言っただけだが、プライベーターには、ここでこういう症状が出
ているけど、それはこういう原因だと思うから、こういうふうにセッティングを変えてみ
ては……といったアドバイスをした。そして、自分でも驚くほど、そのアドバイスは当た
った。
 ライダーがマシーンを降りるのは、テクニックの維持という観点から好ましくないが、
メカニックがいったんマシーンを触るのをやめ、走りを観察したり考えたりする期間を持
つのは、知識と経験を整理し、体系づけるという点で非常に好ましいことである。
 私程度のメカニック経験者でさえそうなのだから、もっと長年にわたって経験を積んだ
メカニックやエンジニアがコースサイドに立ち、他人のマシーンではなく、今まさに自分
が面倒を見ているマシーンの走りを観察すれば、これほど有効なセッティングのための情
報は他にないと思う。
 最近のワークスチームは、メカニックとエンジニアの間にテクニカルコーディネイター
と呼ぶべき職制を設け、彼らがライダーの話を聞き、タイヤやサスペンションのエンジニ
アと相談しながらセッティングを決めるのが通例となっている。だが、その彼らでさえ、
コースサイドに立っている姿はほとんど見かけない。
 予選中、頻繁にピットインし、そのつどライダーの話を聞き、メカニックに指示を出さ
なければならないのはわかる。しかし、今の時代なら、そんなことはピットにいなくても、
トランシーバーか何かを使えば十分にできる。傍聴される危険はあるが、そのあたりは何
とか工夫して、ぜひ、コースサイドで、自分が担当しているマシーンの走りを観察してほ
しい。見る人が見れば、今まで気づかなかったり、見つけるのに遠まわりをしていた足ま
わりのセッティングの解決策が、全部とは言わないまでも、その多くがすぐに見つかると
言っても過言ではない。
 どこかの雑誌社あるいはサーキットとレーシングチーム(ワークスに限定しなくていい)
が組んで、メカニックを一定期間預かり、プレスやオフィシャルとして仕事をしてもらっ
た後、再びチームに送り返すようなシステムがあればいいな……と、そんな夢物語のよう
なことを本気で考えたこともある。
 さらに言うなら、オートバイ整備の基本、とくに、レースの現場にいたのではなかなか
身につかない(しかし重要な)サバイバル的整備術や、整備の前に知っておきたい基本的
知識(洗車のしかた、工具の扱いかた、パーツの洗いかたなど)を、働きながら身につけ
るためのメカニック養成スクールを兼ねたオートバイショップがあってもいい。

エンジニアを取材してわかったこと
 話は戻って、このように、前年までメカニックとして転戦していた全日本選手権ロード
レースを取材した88、89の2年間は、現役メカニック時代とは異なった意味で、オートバ
イという乗り物のメカニズムについて、大いに知識を深めることができた期間だった。こ
んなにマシーンのことが理解できたんだから、もう一度メカニックをすれば、以前よりも
はるかに良い仕事ができるに違いないと思った。だが、それよりも、とにかくヨーロッパ
に行きたい気持ちのほうが強かった。
 こうして私は、世界選手権ロードレースGPをメインに、8耐、多くの全日本ロード、
そしてときには全日本トライアルやモトクロスにも足を運んでレースの取材をするいっぽ
う、工具、メカニズム、ニューモデルの技術解説などをメインにオートバイ関係雑誌に原
稿を書くという生活を始めた。
 久しぶりのGPは、オートバイ好き、レース好き、メカニズム好きの私にとって、やは
り最高に魅力的な世界だった。500ccクラスでは、日本の3ワークスが、速いマシーンか
ら乗りやすいマシーンへ……という、現在につながる開発方向を明確に打ち出した頃だっ
たし、250ccクラスでは、日本の3ワークス+アプリリアの実力が拮抗し、誰が勝つかわ
からないという、競技としての醍醐味にあふれていた。そして125ccクラスとサイドカー
クラスには、メカニズム好きにはたまらない、名前も知らないようなコンストラクター製
のマシーンが多数出場していた。
 たっぷり時間をかけてそれらのマシーンの細部を観察し、走りを見、ときには開発者の
話を聞くことができるのは、メカニックの一員として転戦していたときとは違った意味で
楽しいものだった。ただ、取材者としての私の仕事ぶりは、メカニックをしていたときほ
どまじめではなかったから、充実感に関しては、圧倒的にメカニック時代のほうが高かっ
た。
 取材する側に転じて驚いたのは、何もサーキットでのレーシングマシーンの走りばかり
ではない。市販のストリートモデルの取材もまた、新鮮な驚きに満ちた仕事だった。レー
スが技術開発の場であり、新しい技術の開発がどのようなプロセスで行われるかはだいた
いわかっていたが、それを市販車に導入する過程では、レーシングマシーンの開発に勝る
とも劣らない時間と資金とマンパワーをかけ、レーシングマシーン以上の慎重さで開発が
行われているのだ。
 レーシングマシーンは箱入り娘で、常にメインテナンスを受けないと動かないが、市販
車にはノーメインテナンスで何千km、ときには何万kmも走れる雑草のようなたくましさが
必要なのである。レーシングマシーンを見慣れた目には不要とも思えたボルト1本、クラ
ンプ1個にも、さまざまな使用条件を想定し、どんな場合にも高い安全性と耐久性を維持
するためのノウハウが盛り込まれているのだと知らされた。
 4メーカーだけでなく、ニッシン、ミクニ、カヤバ、ショーワ、ケーヒン、ダンロップ
などの関連メーカー、さらにはいくつかのアフターマーケットパーツメーカーにも取材に
行くチャンスがあった。そして、そこでもやはり、4メーカーと同じく、ストリートモデ
ル用のパーツには、レーシングマシーン用のパーツとは違った意味で大変な開発が行われ
ていた。
 ほとんど走行ごとにメインテナンスを受けるレーシングマシーンのブレーキキャリパー
とは違い、ストリートモデル用のそれは、最低でも車検から次の車検までの間はノーメイ
ンテナンスで機能し、オートバイメーカー側からは、できればマシーンの寿命が尽きるま
での間、ノーメインテナンスで機能するようにしてほしいと要求されているそうだ。
 しかも、それほど困難な要求を満たしていながら、価格はワークスマシーン用のものよ
りも2桁くらい安くなければならないのである。金をかけて優れた製品ができるのは当た
り前。それもいいが、性能を維持したままいかに安く造るかというのもまた、技術者とし
てはチャレンジしがいのあるテーマだ……と言うエンジニアもいる。
 工具の話とともに、これからも引き続き、そういった“もの造り”に込められた技術、
技術者の考えかた、メーカーのポリシーなどを、本誌の誌面を通じて読者のみなさんにお
伝えしたいと思っている。

10年ぶりのライディングと改造計画
 一連の自分自身の話のなかで、何度か自分のオートバイについて書いたことがあったの
で、その続きも書かせていただくことにする。古くからの読者のかたはご存じかもしれな
いが、前回の話に出てきたXJ750Eは、実は本誌の90年11月号に書いた大改造計画のベース
マシーンだったのである。
 当時すでに、フロントブレーキはφ290mmのダブルディスク+TZ用対向ピストンキャリ
パーという組み合わせになっていたが、さらにブレーキ性能を向上させ、フレームに補強
を入れると同時に足まわりを強化し、エンジンも931ccに排気量アップしようというのが
改造計画のあらましだった。
 机上での検討、使用候補となったパーツの購入と測定と決定、新造パーツの設計、改造
用パーツと補修用パーツの購入、外注部分の加工などは、その時点で終わっていた。無垢
の鋳造材から削り出した専用スリーブの加工とシリンダーへの圧入。XJ750E-Uのシリン
ダーヘッドにXJ900用吸排気バルブを取り付けるための加工。フレームの補強と塗装。ベ
アリング、メタル、シール、ガスケットなどをすべて新品にし、XJ900用のクランクシャ
フトを組み込んだクランクケース、V-MAXのインナーチューブとベンチャーローヤルのア
ウターチューブを組み合わせたフロントフォーク、カタナのフロント用2.75-18のマルケ
ジーニホイール……と、パーツ代と加工工賃を合わせると100万円近くに達していた。
 しかし、オートバイいじりにちょうど良い季節はまた、ヨーロッパにGP取材に行くに
も最適の季節だった。このため、私は、分解したままのXJ750Eの組み立てはもちろん、他
のスポーツバイクに乗ることもまったくしなくなった。かろうじて、ときどき草レースで
メカニックのまねごとをしたのが、その後約10年間にわたり、唯一のオートバイとの付き
合いだった。
 ところが、98年のカタルニアGPを最後に国外のレース取材に行かなくなり、オートバ
イに適した季節を日本ですごすことになると、やはり、乗ったりいじったりせずにはいら
れない。きっかけは、本誌9月号の取材だった。京都までやってきた編集長が試乗する2
台のマシーンのうち1台を、提供者であるカスノモーターサイクルから試乗場所となった
奥比叡ドライブウェイまで陸送する役目を命ぜられたのだ。
 往復とも、私はドゥカティ900SSに乗った。そして編集長がSSの試乗をしている間は、
代わりにビューエルX-1で奥比叡を走り回った。2台とも、とても乗りやすいマシーンだ
ったが、とくに900SSは印象的だった。10年ぶりにビッグバイクに跨がった私を、まるで
昨日まで毎日乗っていたかのような気分にさせてくれたからだ。最初の右折はおっかなび
っくりだったが、50mほど走った次の右折には、もう、何の不安も感じなかった。奥比叡
では、右手の開け具合ひとつで立ち上がりのRの大きさを自在に変えられる操縦性を満喫
し、帰りの道中には、このマシーンの購入資金をどうしようか……と考えていたほどだ。
 ところが、ちょうどその頃、前号に書いた8耐でメカニックをする話が持ち上がり、10
年前に戻ったかのような気分になっていたところで、悪いことに、インターネット上のオ
ークションで、驚くほど程度の良いXJ750Eを見つけてしまったのだ。即座に入札し、祈る
ような気持ちで落札を待った。
 そういうわけで、奥比叡に往復した次は、いきなり遠距離走行をすることになった。神
奈川県相模原市のファクトリー レーシングというオートバイショップのオーナーが出品
者だったので、新幹線でお店にうかがい、自走して帰ってきたのである。
 こうして再びオートバイに乗り始めた私の元には、今、オークションで落札したパーツ
が続々と集まりつつある。10年間のブランクを経て、再び改造の虫が騒ぎ出したのだ。10
年前、唯一最後まで決まらなかったリアホイールまわりも、片持ちスイングアームのVFR
400用のホイールを使うと仮定して、それを取り付けるためのハブの設計を楽しんでいる
ところだ。
 まわりの「今度は改造しようとせず、大切に乗れよ。どうせ完成しないんだから……」
との声も馬耳東風。大丈夫。実家には元のマシーン1台ぶん+それの改造用に買ったパー
ツが全部残っているさ……と、言いつつ、10年前の計画を全面的に見直しているところだ。
 この連載が終わった後の新連載には、気分を一新して望みたいと思っているので、お楽
しみに。

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