バイカーズステーション 2000年10月号

ワークスチームというところは、何から何まで
プライベートと違ってシステマチックだった。
86年にヘルパーとしてレースの基礎から学び直した私は
翌87年、幸運にもワークスマシーンのメカニックとなり
マシーンやレースについて、さらに多くを学ぶことができた。

【優れた体制とともに、積み重なった英知もまたワークスの財産だ】


糟野氏に鍛えられた85年
 1984年、福田照男は、世界選手権ロードレースGPシリーズの第2戦イギリスGPから
最終戦サン・マリノGPまでの●戦に参戦し、ランキング●位を得た。また、GPの他、
マン島TTやヨーロッパ各国のインターナショナルレースにも参戦し、優勝1回を含む好
成績をおさめた。
 84年のレースで最も私の印象に残っているのは、結果的には他車に追突されリタイアと
なったサン・マリノGPである。チャンピオンを獲得したクリスチャン・サロン、サロン
の宿敵マンフレット・ヘルヴェー、そして後に250クラスのチャンピオンとなるカルロス・
ラバードらの強豪を相手にトップ争いを繰り広げ、トップ3の一員として最終ラップに向
かっていった。
 その最終戦の走り、そして84シーズンの活躍が認められ、翌85年、福田はHRCの契約ラ
イダーとなった。しかし、サン・マリノGPでの負傷、そしてその後アメリカで行われた
HRCのトレーニング中の負傷が重なり、引退を決意。再びGPを走る福田の姿は見られな
くなってしまった。私のほうは、先月号にも書いたように、85シーズンは日本に留まり、
TZ250で全日本選手権ロードレースに参戦する糟野氏のメカニックをすることになった。
 カスノモーターサイクルに出入りするようになって8年、ロードレースのメカニックを
やりだして6年目、初めて私はボスのマシーンを担当することになったのだ。糟野氏のメ
カニックは、GPとは違った意味で貴重な体験であり、過酷な仕事だった。
 プライベーターとはいえ、レース経験が豊富(当時、全日本の250ccクラスでは最年長
のライダーだった)で、大型オートバイ販売店の主でもある糟野氏だから、マシーンに対
する要求は高く、それを実現するためのパーツや加工設備なども揃っていた。おまけに、
ヤマハの普及本部(レース活動の普及・推進が主業務)や研究2課(ワークスマシーンの
開発・参戦が主業務)などに太い人脈を持っていたから、普通のプライベーターでは入手
困難なパーツ(試作パーツなど)を使えるチャンスもあったりした。
 TZ250の85モデルは、長年続いたピストンバルブからリードバルブに移行したばかり
で、エンジン特性の違いにとまどうライダーが多かった。下のトルクはあったし、始動性
や燃費も良く、初心者には扱いやすいエンジンだったが、高回転時のレスポンスや上の伸
びは、正しいセッティングをし、慎重なスロットルコントロールをしたときのピストンバ
ルブにはかなわなかった。そこで糟野氏は、かのハンス・ヒュンメルにリードバルブ用シ
リンダーの制作を依頼した。
 ところが、一世を風靡したHHシリンダーのリードバルブ版を期待したのもつかの間、
届いた製品は、どんなに手を加え、セッティングをし、乗りかたを変えてみても、満足な
性能を発揮してくれなかった。幻のリードバルブ用HHシリンダーは、こうして、わずか
2レースほどでお蔵入りとなったのである。
 85年はまた、シーズン半ばに初めて公式戦に姿を見せたYZR250(OW82=イギリス
GPでカルロス・ラバードが駆りデビュー)や86モデルのTZ250の開発が進み、250ccの
ロードレーサーにアルミフレーム化の波が押し寄せていた時期でもある。片山信二、奥村
裕らヤマハ系ライダーが、大きな補強パッチを当てたフレーム(フレームそのものはノー
マルベースのダブルクレードルタイプ)を使っていたこともあり、フレームの剛性(当時
はまだ聞き慣れない言葉だった)に対する関心は一気に高まった。
 それを見て、負けず嫌いの糟野氏は発奮した。わずか4〜5日で補強パッチを作り、自
分で溶接して片山や奥村のと同仕様のフレームを作ってしまったのだ。
 ライダーがそんなふうだと、メカニックとしても頑張らないわけにはいかない。忘れも
しない6月の鈴鹿でのレース。マシーンとともに木曜深夜に鈴鹿入りした私は、金曜朝に
やってきた糟野氏から溶接痕も生々しいフレームを受けとり、金曜の走行終了後、現地で
フレームを交換。土曜朝には溶接部分が塗装されたスペアフレームが到着し、その日も走
行終了後にフレームを交換した。
 忙しいときには忙しいことが重なるもので、1回目のフレーム交換とギア比の交換(当
時のTZはクランクケースを開けないとミッションの整備はできなかった)を終えた午後
8時頃、エンジンをウォーミングアップしていた私のところに糟野氏が現われ、「吉村、
ほい、これ」と、ポケットから2速ギアを取り出した。それは、上に書いた試作パーツの
一つであり、片山や奥村が鈴鹿で使っていたものらしかった。私は一瞬ぎょっとしたが、
とにかくマシーンや工具を触っているのが好きだったから、「すぐやりましょう」と、再
びエンジンを降ろし、ミッションの交換を始めた。
 他のレースも、すべてこんな感じで、それこそ本当に寝る時間もないほど忙しい週末を
すごしていたが、メカニックをすると決めたのなら、それは当たり前のこと。レーシング
メカニックには、腕の速さやメカニズムに対する知識以上に、忍耐力と体力が必要だとい
うことが、あとになってわかった。当時はただ、好きでやっていただけだから、嫌だと思
ったり、辛いとか疲れたと感じたことは一度もなかった。
 糟野氏のメカニックとしてすごした85年は、忙しくも楽しい、やりがいのある充実した
1シーズンだったが、翌年は、その糟野氏の薦めにより、同チームの長谷川嘉久のメカニ
ックをすることになった。
 85年はまた、福田と渡欧する前に知り合ったライディングスポーツ誌のスタッフのすす
めにより、ライターとして同誌に連載を始めた年でもある。84シーズン中にもライダース
クラブ誌に福田チームの参戦記を書いてはいたが、それはライターというよりもチームの
仕事の一環といった感が強かったから、ライターとしての初仕事は、“TOOL BOX”という
名のライディングスポーツ誌の連載(途中で“ワークベンチ”と名前を変え92年まで継続)
だったといえる。
 “TOOL BOX”は、その名のとおり、工具の話をメインに、レーシングマシーンの整備に
関する体験談やヒントなどを盛り込んでいた。余談だが、本誌に工具関係の原稿を書くよ
うになったのは、当時のライディングスポーツ誌の担当編集者が本誌編集部に移籍し、佐
藤編集長に紹介したくれたのがきっかけである。そして本誌の連載は10年を超え、ライデ
ィングスポーツ誌の7年を上回るロングランとなった。これもひとえに読者の方々と編集
部のみなさんのおかげである。ここで改めてお礼を申し上げたい。
 82年の事故、84年の渡欧などで、しばらくオートバイに乗っていなかった私が、再び乗
り始めたのもこの年だ。以前本誌に書いたとおり、中古のXJ750Eを購入したのである。動
力性能とコーナリング性能には不満はなかったが、とにかく、私には危険と思えるほどフ
ロントブレーキが利かなかった(リアの大径ドラムブレーキはよく利いた)ので、フロン
トブレーキだけはGX500と同じ手法でφ298mmディスクと対向ピストンキャリパーに交換
した。翌年、一部のパーツが非売品に変わったり、各部に軽量なボルトが増えたりしたの
は内緒の話である。

基礎から学び直した86年
 長谷川嘉久は、元々フライングドルフィンのメンバーであり、糟野氏の弟子といえる存
在だったのだが、いったん同チームを離れ、チームスーパーモンキーでホンダの市販レー
サー・RS500に乗っていたりした。その後ヤマハの普及契約となり、85シーズンはワー
クスマシーン(YZR500)に乗っていたのだが、種々の事情で86シーズンはヤマハから
貸与されたTZ250で参戦することが決まったのだった。
 ヤマハは、この年から世界GP、全日本の両方にワークスマシーンを投入。全日本では
片山、奥村の2人がYZR250を駆ることになっていた。ところが、シーズン開幕直前の
テストで奥村がケガをし、長期間の欠場が予想されたため、急遽、長谷川にYZR250の
シートが回ってきた。これにより私は、1シーズン面倒をみるはずだったライダーとマシ
ーンの両方を失うことになったのだが、周りの人々の計らいにより、ヤマハワークスチー
ムのヘルパーとして全日本の全戦に参加することができるようになった。
 初めて中に入ったワークスチームの実態は、外から見て想像していたものよりはるかに
すごかった。会社の業務としてレースをしているのだから、当然といえば当然なのだが、
作業分担、責任の所在、指揮系統など、すべてがはっきりしていた。そのうえ、長くレー
スを続けてきたメーカーならではの伝統を感じさせる備品や作業手順にも驚かされた。
 ガソリンやオイルの運び方と測り方、混合ガソリンの作り方、ガソリンの入れ方、タイ
ヤ交換のしかた、ホイールバランスの取り方、空気圧の測り方、パーツの洗い方、発電機
とエアーコンプレッサーの扱い方、ドライブチェーンのかしめかた、不要になったパーツ
の廃棄のしかた、パーツや備品の整理のしかた、などなど、どれもが私には目新しく、そ
れまでに自分がやってきた方法よりも合理的・合目的的だった。
 この1年間に私が学んだことは、メカニックを初めてから85年まで(84年のGP転戦を
含んでさえ)の数年間に学んだすべてのことがらよりも多かった。メカニックを始めて8
年目にしてようやく、基礎からしっかり勉強させてもらった86シーズンだった。
 ライディングスポーツ誌の連載は、86年中も続けていた。さらにこの年は、リンドバー
グの藤井社長の薦めで、84年に作ったTZマニュアルの書籍版といえる“2ストロークレ
ーシングハンドブック”の執筆もした。ヤマハワークスチームのヘルパーをしながらの執
筆だったから、同書はTZマニュアルのアップデート版ではなく、86シーズンに学んだこ
とがらを多く盛り込んだものとなった。

現役メカニック最後の年、87年
 86シーズンが終わったところで、私は再び自由の身(失業者とほぼ同義語)となった。
定価2,800の“2ストロークレーシングハンドブック”が8,000部近く売れたおかげで、最
終戦以後しばらくは遊んでいられたが、年末近くになってそうもしていられなくなり、XJ
750Eを駆り、職探しに上京した。
 その途中、京都府南部から国道と東名阪自動車道を乗り継ぎ、名古屋に出たところで、
ヤマハ系のオートバイショップ“YDS岡部”に寄った。本当にただの寄り道にすぎなかっ
た。しかし、ちょうどその頃、YDS岡部の岡部社長はメカニックを探していたのである。
 86シーズン終了後、ヤマハは、ワークスチームを徐々にサテライト化する計画をスター
トさせ、その最初の試みとして、250のチームの運営とワークスマシーンの整備が社外に
移管されることになり、岡部氏がその受け皿となる新会社の社長に就任していたのだ。渡
りに船とはこのことである。
 翌87年2月になって、岡部氏から連絡があり、私は新しい“ワイ・エム・オー”という
会社の従業員となり、名古屋のワークショップをベースに、86年のケガから復帰し、再び
YZR250(OW85=クランクケースリードバルブ・相互逆回転2軸クランク・90度V型同爆
2気筒。OW82の発展型)を駆ることになった奥村裕のメカニックをすることになった。
 ワークショップを名古屋に置くとはいえ、実質はヤマハワークスの250チームだったか
ら、86年のヘルパー経験は大いに役立った。だが、シーズンオフの間にヤマハ本社の整備
室に出張しての整備、そして袋井のヤマハコースでのテストの毎日は、86シーズンよりも
さらに驚きに満ちた、学ぶことの多い日々だった。
 シリンダーのポート形状と寸法の調整や変更のしかた、シフトドラム溝やミッションギ
アのドッグのファインチューニングのしかた、ブレーキキャリパーピストンのメインテナ
ンスのしかた、キャブレターの微妙なセッティング(主に部分開度域におけるジェット類
とニードルの選択)のしかた、排気チャンバーやリードバルブの変更によるエンジン特性
の変化の傾向、パーツ交換(テストパーツ装着)後のセッティングの詰め方、すべてのパ
ーツに及ぶ走行距離の管理のしかた、などなど、枚挙にいとまがない。
 レースがある週末は水曜日中にサーキットに入り、レースがない週は木・金の2日間ヤ
マハコースでテストをし、それらの合間に鈴鹿やSUGOでテストをするから、メカニックの
仕事は多い。さすがにプライベート時代のような2日連続ほとんど徹夜といった無茶をす
る必要はなかった。その代わり、1シーズンをつうじて常に体力を維持し、必要とあれば
いつでも徹夜できるように、必要のないときは早く寝るといった身体の管理も仕事のうち
だった。
 ワークスマシーン整備の外部委託の初年度に、奥村という人一倍セッティングと美観に
うるさいライダー(彼の名誉のために付け加えるなら、人一倍プロフェッショナルな姿勢
を大切にしていた)のマシーンを担当した87年は、今になっても、10年間にわたるメカニ
ック生活の中で最も充実したシーズンだったと感じている。87年のレース誌があれば、全
日本ロードレースのページを開いてみてほしい。整備が行き届いていたのはもちろん、す
べてのパーツを常に美しく掃除し、ゼッケンやスポンサーのステッカーの貼り方にも細心
の注意を払っていたゼッケン16番のYZR250の写真があるかもしれない。
 “ここまでやれば十分……”というおごった気持ちではなく、“ここまでやったんだか
ら、若いうちに他のこともしてみたい……”という純粋な気持ちを、2年間のワークス経
験は私に与えてくれた。奥村がホンダに移籍したり、自分自身の結婚が決まったりと、環
境の変化も手伝って、ついに私はメカニックを辞め、専業のライターとしてオートバイ関
係雑誌の仕事をすることになった。
 これが、ロードレース関係のライターとしての、私の新しい10年間の始まりだった。そ
して、その後間もなく本誌に執筆を開始し、工具の話やメカニズムの話など、ロードレー
ス以外の原稿も書くようになった。でも、私がそれをできるようになったのは、レーシン
グメカニックをしていた20歳代の10年間に得た多くの先輩や友人たちのおかげである。誌
上を借りてお礼を申し上げたい。

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