イタリアからの出国は簡単だった。
問題はスロヴェニア入国。
この前、ここを通ったのは'88年の今ごろ。
新婚旅行パート2と称して
ユーゴスラヴィアGPを見に行く途中だった。
その前にも何度か通っていたが、いつも、ひどく混雑していた。
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スロヴェニアの道を走りだして
Kosinaのボーダーを振り返る。
こちらからイタリアに
出て行こうとするクルマも
イタリアから
入ってこようとするクルマも
出入国はスムーズそのもの。
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ところが、スロヴェニアが独立してから初めての今回
国境は異様なまでにすいていた。
入国や通関が簡単になり
みんな、時間を取られずに通過できるようになったからだろう。
ここで、今回の旅行で初めて
パスポートにスタンプを押してもらった。
“KOZINA”という地名と日付だけの
昔と同じスタンプだったのでがっかりした。
もちろん、ユーゴスラヴィア時代と同じく、VISA は不要だ。
入国してすぐのところに
昔ながらのレストラン、売店、両替屋があった。
内装は一新されており
以前のように“東欧に来たんだ”という感じはしない。
両替屋でドイツ・マルクを
スロヴェニア・トラリェフ(Tolarjev)に交換した。
最初、日本円を見せて断られたからだ。
初めて見るトラリェフ札は
オランダ・ギルダーに似た色使いの、美しい紙幣だった。
100マルクで6766トラリェフだから
ほぼ1円=1トラリェフと考えていい。
ボクがその国の経済力の指標のひとつにしている
お札の疲労度も低く
新生スロヴェニア共和国の経済は
まずまずの滑りだしのようだ。
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100トラリェフ札の表裏。
この他、10、20、50
500、1000があり
どれも同じように
グラフィカルで
すっきりしたデザイン。
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そういえば、アウトストラーダでも
スロヴェニアナンバーの車をよく見かけた。
プジョーの605やメルセデスの230E
フォルクスワーゲンのパサートなどが
イタリア車に負けないスピードで走っていた。
イタリアの[A4]には
昔からユーゴスラヴィアナンバーの車が多かった。
しかし、去年は確か、旧ユーゴスラヴィアの車は減っていた。
イタリアの[A4]に代って“壁”崩壊前後から
東欧諸国の車がどっと押し寄せたのは
オーストリアの[A1](ウィーン〜ザルツブルク間)だ。
ハンガリーとオーストリアは
ドイツやフランスに向かう通路だった。
それが、今年になってまた逆転している。
イタリアではスロヴェニアの車が増え
オーストリアでは東欧の車が減っている。
トリエステで食べたケーキのせいか、喉が乾いた。
レストランでミネラルウォーターを頼み
ついでにとなりの売店を覗いた。
その途端、なつかしさがこみあげてきた。
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Kosinaのボーダー脇にある
レストラン、免税店、両替所
観光案内所などが入った建物。
独立後新しく建てられたもので
中の雰囲気も免税店の商品も
イタリアあたりと変わらない。
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1984年、メカニックとしてグランプリを転戦していたとき
ユーゴスラビアGPのとき
クロアチア人のジェリカという女の子と知り合った。
シーズンが終わって帰国する前に、クロアチアを訪ねたとき
彼女がおみやげにくれたのにそっくりの
木彫りの皿があったのだ。
結局、それ以来彼女とは会っていない。
あのときは“来年もまた会おう”って約束したのに…。
そして今、ボクは、スロヴェニアを通過して
クロアチアのリエカに向かおうとしている。
リエカのすぐ沖合いのアドリア海には
クルク島(Otok Krk)が浮かんでいて
クルク島のマリンスカ(Malinska)という小さな町に
彼女が働くホテルがあった。
あのときは、半月ほど
そこをベースにクロアチア各地を旅してまわった。
いろんなことをいっぺんに思い出して息が詰まりそうだった。
ともかく、大好きなリエカ(Rijeka:川の意)の街だけは
今回、どうしてもその無事を確かめに行きたかったのだ。
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トリエステ〜コジナ間は約18km。
アウトストラーダ[A4]は
トリエステに入る手前から
無料の自動車専用道となって
市街地背後の緑濃き山の中を通り
ボーダーに達している。
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