バイカーズステーション 2000年8月号

レースのメカニックである前に、普通のメカニックであれ
セッティングやチューニングをする前に
1台のマシーンを完璧な状態で走らせること
レーシングマシーンといえども、基本は市販車と同じ
これが10年間のメカニック生活で私が得た答えだった

【とにかく壊れないように。これがプライベート時代の至上課題】


メカニックとして独立した82年
 82年、つまり古屋の国際A級での2シーズン目を迎えるに当たって、私には少々迷いが
あった。(前号に83年と書いたのは間違い)当時、某大学に在籍していた私にとって、選
択肢は3つだった。レースなど辞めてちゃんと学校に通うか、メカニックとしてもう少し
自分の腕を磨くか、ライダーとしてやってみるか……。私が選んだのは2番目だった。
 しかし、古屋には悪いが、ここまで3年間と同じように、プライベートチームのメカニ
ックとしてTZ250をいじるのでは進歩がない。そう考えた私は、ヤマハの普及契約(ワ
ークスではなく、市販レーサーの完成検査をしつつレース活動もサポートしてもらってい
た)ライダーとしてTZ500に乗っていた上野真一氏を訪ねた。フライングドルフィンの
糟野氏もTZ500を持っていたが、本業のオートバイ屋が忙しく、あまりレースに出なく
なっていたから、上野氏は京都で唯一の現役500ccライダーといえる存在だった。
 古屋と離れ、メカニックとして独り立ちするために、私は、それまで古屋に借りて整備
していた工具をすべて自分で持つことにした。ブルーポイントのワイヤーツイスター、ハ
ゼットのトルクレンチ、ベルツァーのスロッテッドナットレンチなどがそうだ。そして、
メカニックの定番ともいえる引き出し式の工具箱もこのときに買った。スナップ・オンの
KRA56Jをコピーしたような、日本製・ノーブランドの製品(おそらく宝山製)だった。
工具は大阪の大谷商店で、工具箱はカスノモーターサイクル御用達の産業資材屋で買った。
 それまで私は、樹脂製で、間仕切りつきのトレイがフタとともに左右に開くタイプの工
具箱を使っていたのだが、その中身を新しく買った引きだし式の工具箱に入れてみて驚い
た。ほとんど満杯になってしまったからだ。引き出し式工具箱は、使い勝手はいいが、収
納力はそれほど高くないということがわかった。
 大きな工具箱を買ったのはいいが、当時の私はそれを移動させる手段、つまりクルマを
持っていなかったから、鈴鹿での練習(スポーツ走行)や出張整備(上野氏やそのチーム
員のガレージに行って整備をする)のときは、すべての工具を樹脂製の工具箱に移し変え、
オートバイに積んで行った。このとき乗っていたのはTX650ではなくGX500である。

GX500の改造、そして事故
 GX500といえば、ヤマハ初のスポーツ志向の4ストローク車・TX500の後継機種。技
術的にはドイツ車ホレックス〜日本車ホスクの流れを汲みながらデザイン的には英国車を
意識したツーリングモデル・XS1の後継機種TX650や、技術的には独自性を高めながら
デザイン的にはホスクのDB(500ccツイン)の影響を感じさせたTX750とは異なり、T
X500は、RD系に近いフレームに4バルブエンジンを載せたスポーツモデルだった。4
サイクルマッハ(じゃじゃ馬として有名だったカワサキの500SSの4ストローク版とい
った意味)と呼ばれた初代TX500よりはずいぶんおとなしくなっていたが、それでも、
TX650よりははるかに峠道を攻めるのに適していた。
 家に転がっていたTX650やTZ250、そして部品取り用に買った初代TX500のパーツ
を使って、私はこのGX500にかなり改造の手を加えた。最初にしたのはフロントブレー
キの交換である。70年代後半のヤマハ製スポーツバイクは、それまでの評判がウソのよう
に“利かないブレーキ”になっていた。アメリカあたりでの訴訟の影響か、とにかく、未
熟なライダーが思い切り握ってもロックしないようにしたとしか思えないフロントブレー
キ。対するリアは、ギャーっと音を立ててロックすればOKみたいな当時の日本の車検に
合わせたかのようなコントロールしづらいものだった。
 GX500のフロントブレーキは、一枚物(ブラケット一体型)のφ298ディスクとシング
ルピストン・ピンスライド型キャリパーの組み合わせだった。見た目も効力も気に入らな
かったので、TX650と同じ(TZ250ともほとんど同じ)ディスクとキャリパーの組み合
わせにしたかったのだが、ノーマルのフロントフォークではキャリパーブラケットを取り
付けなければならない。しかし、それでは格好が悪いので、フロントフォークをTX650
のものに交換した。GXのノーマルはφ35でTXはφ34。幸いステアリングヘッド周りの
寸法が共通だったから、上下のブラケットも含め、TX650のフロント周りをGX500に移
植した。
 ディスクのブラケットは、互換性のあるTZ500/750のものにした。シングルディスク
ではあったが、これで見た目は78年のケニー・ロバーツのYZR500と同じフロントブレ
ーキになった。パッドは、TXのノーマルよりもよく利くTZ500用の純正部品がそのま
ま使えたが、それよりもペルマフューゼという輸入物(どこのメーカーだか、今となって
はわからない)が気に入った。新品ではなく、フライングドルフィンの連中がレースで使
ったお古である。このパッドは利きもタッチも抜群だった。
 どこかから、互換性のあるヤマハ純正のキャストホイール(大八車と呼ばれていた7本
スポークの、スポークホイールよりも重いヤツ)を手に入れたので、それには安物のタイ
ヤをはめて普段用にし、アルミリム+スポークホイール(リアは苦労してアルミリムに換
装した)には、フロントにミシュランのS41・PZ2、リアにダンロップのMR277(プロ
ダクションレース用)をはめて峠道用にしていた。
 エンジンのほうは、あまり改造しなかった。キャブレター(GXはミクニのBS、TX
はケーヒンのCV)とマフラーをTX500のものに交換し、シリンダーベースパッキンを
抜いて(液状ガスケットだけにして)圧縮比を高めていた程度だ。セッティングとしては、
バルブクリアランスを大きめにし、点火時期をやや早めていたような気がする。
 余ったGXのフロント周りのパーツは、かなり無理をして空冷モノサスのDT125に取
り付けた。当時、ヤマハの2スト125ccは、ロードレーサーTZ、モトクロッサーYZ、
オフロードDT、トライアラーTYとも同寸法のクランクケースを使っていたから、この
DTにはYZのエンジンを積んでいた。排気チャンバーは、出たばかりのRZ250のもの
を流用した。今考えると恐ろしくてできないような改造ばかりだが、当時は平気だった。
知るということは、自由な発想の妨げなのかもしれない。
 当時走り回っていたのは、鈴鹿スカイライン、嵐山高雄パークウェイ、東山ドライブウ
ェイ、信貴生駒ドライブウェイなど。週末は遠出をし、平日の夕方は、仲間とともに、京
都市内の東山ドライブウェイに集まっていた。鈴鹿サーキットのオフィシャルをしている
者、現役のロードレースライダーなどもたくさん走りにきていた。スズキのワークスライ
ダーとなった北川圭一も、カワサキのAR50で走っていた。
 そして……、こんなことをしていると、いつかは危ない目にあうものである。目の前を
走っていたヤツが転倒して骨折したり、真後ろを走っていたヤツが谷底に落ちても、“自
分だけは大丈夫”と思って(みんなそう思っていたはずだ。ちなみに、最近聞いたところ
では、糟野氏もそう思ってレースを続けていたそうだ)走り続けていたのだが、とうとう
やってしまった。忘れもしない82年7月2日。
 いつものようにGX500に跨がり、仲間がたむろする頂上の駐車場に向かって流してい
たときだ。最後の右コーナーにさしかかった途端、私は信じられない光景を目にした。次
のブラインドの左コーナーから、横向きになったクルマが飛び出してきたのだ。そのクル
マは、リアが外に流れ、コントロール不能に陥っていた。とっさにマシーンを起こした私
は、フルブレーキをかけながら道路の左端に寄った。左側通行の道路で対向車を避けるの
に、右に向かうヤツはいない。ところが、運悪く、そのクルマはコーナーのインを向いた
ところでグリップを回復。私の目の前を右から左に横切り、石積みの崖に激突して跳ね返
ってきた。
 そこから先の数秒、私には記憶がない。気がついたら、右半身がクルマ(ライトバンだ
った)の荷物室の下に入り、左足の上に自分が乗っていたマシーンが横たわっていた。駆
けつけた仲間が、左足の上のマシーンを起こそうとしていた。そいつに向かって「なるべ
く端に寄せて、コックをオフにして、キーを抜いといてくれ……」と頼んだ。そして、彼
が指示どおりにしたのを見届けてから、ヘルメットを脱がしてくれと頼んだ。事の大変さ
に気づいたのはそのときだ。
 右腕の肘から手首にかけてバックリと傷口が開いていて、そこから鮮血が流れていた。
上に乗っていたマシーンがなくなり、自由になったはずの左足には、どういうわけかまっ
たく感覚がなかった。首だけ起こして左足を見ると、つま先があらぬ方向を向いていた。
どうやら折れたらしい……。骨折の経験はなかったから、ふむふむ、骨が折れるって、こ
んな感じなんだな……と、妙に納得した。
 救急車は、仲間の誰かがすぐに呼んでくれたらしいが、なかなかやってこなかった。い
や、こんなときに時間の感覚が正常であるはずがないから、そんな気がしただけで、実際
にはすぐに来てくれたのかもしれない。ともあれ、幸いにも走っていた仲間の中に看護婦
見習いの女の子がいて、救急車が到着するまでの間、その子が右手の止血をしてくれてい
た。
 いつも走っていたドライブウェイを救急車で走るのは、あまり快適ではなかった。遅す
ぎる。もっと飛ばせ……。そんなことを思いながら病院に着いた。着いてすぐに集中治療
室に搬入され、仲間の一人が手術承諾書にサインをしてくれて、緊急手術が始まった。右
手その他の外傷を縫合し、左足を牽引するため、膝と足首の関節にワイヤーを通したらし
い。全身麻酔のおかげで、このあたりの記憶はまったくない。
 次に気がついたら、病室のベッドに横たわっていた。右手は天井から吊り下げられ、左
足はベッドの端の柱からワイヤーで引っ張られていた。不思議と、どこも痛くなかった。
医者の話では、大腿骨の他、尺骨(膝下の太いほうの骨)も折れ、膝蓋骨(膝の皿)も割
れていたらしい。
 それから退院までの約40日間(家で寝てても同じことなので、途中で無理やり退院した)
は、手術とリハビリの毎日だった。大腿骨と尺骨にφ12×300〜400mmくらいのステンレス
パイプを通す手術、左足太ももの表皮を右手の皮のなくなった部分に移植する手術、そし
て膝と足首を動かすリハビリだ。それと同時に、私はもう一つのリハビリをしていた。オ
ートバイ乗りとしての気持ちのリハビリだ。
 自分には100パーセント過失がなかったから、退院したらすぐにでもオートバイに乗っ
たり、いじったりしたい気持ちだった。天井に貼ってもらったGX500の写真を見ながら、
あれこれと改造に思いをめぐらせた。フロントの18インチ化とダブルディスク化、そして
エンジンのパワーアップなどについて考えていると、40日間はそれほど長く感じなかった。
だが、退院した後実際にオートバイに乗ったのは、かなり先のことだ。数ヵ月間は松葉杖
のお世話になっていたし、その後しばらく、左手にステッキを持っていたからだ。

三浦昇と出会い、メカニックに復帰
 こうして、82年7月以降レースから遠ざかっていた私が、再びサーキットに行ったのは
83年の春。筑波で行われた全日本選手権第3戦だった。このときは、とくに誰かのメカニ
ックをするわけではなく、ただフライングドルフィンのメンバーについていっただけだっ
た。が、そこで、82年にスーパーノービスと呼ばれ、83年に国際B級に昇格した三浦昇と
出会ったのである。三浦は、並外れたライディングテクニックを持っていた。しかしマシ
ーンの整備状況は極悪で、ノービス時代もこの年も、しょっちゅうマシーントラブルでリ
タイアしていた。よし、こいつのメカニックをしてやろう……。そう思った私は、以後、
シーズン最終戦までの間、全日本選手権を三浦とともに転戦した。
 吸排気系のチューニングは(私にその能力がなかったために)できなかったが、キャブ
レターのセッティングを完璧にし、サブラジエターを取り付けたり、フロントブレーキを
ダブルディスクにしたり、リアキャリパーをフローティングタイプにしたり、三浦のマシ
ーンにはいろいろと手を加えた。フロントブレーキのダブルディスク化+軽量化は、GX
500の修復用に買ったTZ500のパーツを流用した。世界GPで流行していた16インチのフ
ロントタイヤのテストなどもすることができた。三浦が所属していた中部ミスターバイク
という販売店と、三浦の速さに注目していた関連メーカーのおかげで、ずいぶんいろんな
パーツのテストができ、私にとっても非常にためになった1年だった。
 当時、全日本の250ccクラスは参加台数が少なく、レースによっては、国際B級は国際
A級との混走だった。そして三浦は、混走となった鈴鹿での総合優勝を含む4連勝をマー
ク。ランキングトップに立って、最終戦・鈴鹿の日本GPに臨んだ。このレースには、世
界GPのヨーロッパラウンドに参戦してきた福田照男もエントリーしていた。82年の全日
本国際A級250ccチャンピオンと、83年の国際B級250cc最速ライダーの対決はしかし、ス
タート直前のCDIトラブルという結果に終わった。これにより、三浦はノーポイントと
なり、国際B級のチャンピオンも逃してしまった。
 三浦のメカニックをした83年は、私にとって、メカニックとしての腕を磨き、経験を積
むだけでなく、レース界に多くの知り合いを得た年でもある。三浦の社交的な性格のおか
げで、国際B級やノービスの多くのライダーはもちろん、彼らのメカニック、さらには関
連メーカーの人たちなど、多くの人と知り合った。そしてこの頃から私は、マシーンの整
備やセッティングについて、自分が教えてもらうよりも、人に教える機会のほうが多くな
ってきた。
 そんな私を、世界GPから帰ってきた福田照男が誘ってくれた。彼の2シーズン目の世
界GP挑戦に、メカニック兼マネージャーとして渡欧することになった私は、1冊のマニ
ュアルを制作した。制作の動機は、83年に知り合った2人のノービスライダーが、私に聞
かなくてもTZ250の整備ができるように……というところにあった。そしてこれが、後
にライターとなるきっかけとなったのだが、そのあたりは次号で。

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